韋説
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経歴
はじめ殿中侍御史をつとめた。天祐元年(904年)、右司員外郎となった[1]。事件に連座して嶺南に左遷された[2]。荊州にいたとき、荊南節度使の高季興と知り合いた[3]。のちに後梁に仕えて礼部侍郎となった[2]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が開封府と洛陽を平定すると、韋説は趙光胤(趙隠の子)とともに同中書門下平章事となった。その性格は慎重で落ち着いており、職務にあたっては紛糾を起こすことがなかった。ときに郭崇韜が政権を掌握していたが、韋説は唯々諾々と従うのみで、政治の得失について意見することはなかった。郭崇韜が罪に問われると、韋説は左拾遺の王松や吏部員外郎の李慎儀に命じて郭崇韜が官吏任用の道を塞いでいたと告発させた[4]。
天成元年(926年)、明宗が即位すると、韋説はいつも保身の心配をして、ことあるごとに任圜の庇護を求めた。韋説は井戸を持っており、隣家と共用していたが、垣を築いて隣人を排斥した。このことを隣人に訴えられ、蕭希甫が上疏してこれを非難した。韋説は叙州刺史に左遷され、ほどなくさらに夷州司戸参軍に流された[5]。天成2年(927年)7月、殺害された[6]。