蕭希甫
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若くして進士に及第し、後梁の開封尹の袁象先の掌書記となった。袁象先が青州節度使となると、希甫はその下で巡官となったが、希甫は楽しまなかった。その母や妻を捨てて、姓名を変えて鎮州に亡命し、青州節度掌書記を自称して、成徳軍節度使の王鎔に面会した。希甫は王鎔の下で参軍となったが、ますます楽しまなかった。1年あまりして、また易州に亡命し、髪を剃って僧となり、百丈山に住持した。晋王李存勗が皇帝に即位しようと、百官を置くと、希甫は李紹宏の推薦により魏博節度推官となった[1][2]。
同光元年(923年)、内宴の儀礼を定めるよう勅命が下り、後唐の荘宗(李存勗)が枢密使の座を設けるべきかどうか希甫に諮問すると、希甫はいけないと答えた。枢密使の張居翰がこれを聞いて怒り、「それがしは三朝の天子に歴仕し、内宴に数百回も参加してきた。きみはもともと田舎の児でありながら、どうして宮中の禁事を知ろうか」と希甫にいった。希甫は答えることができなかった。荘宗は希甫を知制誥にしようとしたが、宰相の豆盧革らは張居翰について希甫を排斥した。このため希甫は駕部郎中となった。希甫は志を失い、面白くなかった。荘宗が後梁を滅ぼすと、希甫を青州や斉州に派遣して宣慰させようとした。希甫はその母が死去し、妻の袁氏が再婚していたことを始めて知った。希甫は服喪を理由に辞職し、魏州に蟄居した。当時の人は漢の李陵の「老いた母は堂に終わり、生ける妻は室を去る」という言葉を引いて、希甫を非難した[1][2]。
天成元年(926年)、明宗が希甫を諫議大夫として召し出そうとしたが、豆盧革と韋説がこれを阻んだ。明宗がついに希甫を諫議大夫とし、さらに理匭使とした。そののち豆盧革と韋説は安重誨に憎まれるところとなった。希甫は安重誨の意を受けて、豆盧革が田客を使嗾して人を殺させ、韋説が隣人と宝を隠した井戸をめぐって争っていると誣告した。役人がその井戸の中を攫って調査し、ただ破れ釜があっただけであったが、豆盧革と韋説は左遷されて死んだ。希甫は左散騎常侍に任じられ、集賢院学士・判集賢院事をつとめた。躁病が昂進して、異変を告げる李筠を召し出して夜間に宮中の門を叩かせ、「堤を修築している兵士たちが、郊祀の日に火を掲げて反乱を起こそうとしている」という変書を通じさせた。安重誨はこれを信じず、李筠を斬った。希甫は明宗の勅命により嵐州司戸参軍に左遷された。長興年間、嵐州で死去した[3][4]。