韓屋
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「韓屋」は最広義には朝鮮半島に建てられる建造物のすべて、より一般的には住宅建築を意味する言葉であるが[1]、現代韓国においては伝統住宅、特に瓦葺きの中流以上の住宅をこう呼ぶことが多い。藁葺きの庶民住宅である草家は、しばしば韓屋とは区別される。また、韓屋と対比して、現代の建築様式による家屋を洋屋(ヤンオク)ともいう[2]。
19世紀末に海禁政策が解かれて以降、日本をはじめとする外来の建築様式が流入する中で、研究者や建築家たちの観察・比較が進み、韓屋の概念が形成されていった[3]。古いものでは、日本の地理研究者の矢津昌永が1894年に刊行した『朝鮮西伯利紀行』では「韓屋の構造」としてオンドルを備えた寒冷地向けの住宅と説明している[4]。
1960年代に入ると大韓民国において文化財保護のための法整備が進むとともに、1970年に始まるセマウル運動によって伝統的家屋が急減していく中で、韓国人研究者による調査研究と保全運動が活発化し、1910年の日韓併合以前の建築様式を保つ伝統的家屋を指す学術用語としての韓屋の概念が確立していく[5]。その後、行政・法令用語に組み込まれる中で、概念の拡張と整理が進み、李氏朝鮮期の建築様式そのままの伝統韓屋、セメントやガラスなどの外来の建築材料も取り入れた改良韓屋・都市型韓屋と細分化されていく[6]。1970年代後半から韓屋の街並み・景観保全のための法整備が進むと、古民家だけではなく、新築・改築を前提とした建築様式としての韓屋様式の概念も形成されていく[7]。
構造
気候が寒冷な北部、比較的温暖な南部と朝鮮半島内でも家屋の建築様式は地域差があるほか、李氏朝鮮以前の伝統社会では社会階層・身分によって家屋の広さや使用できる建築材料が厳格に区分されていた[8]。たとえば、伝統住宅の正門である大門(デムン)は身分が高ければ高いほど大きい作りとなる[9]。
家屋の基礎部分は基壇(キダン)という石を積み上げた構造を持つ[10]。基壇の高さは社会階層によって異なり、班家(両班階級の住宅)では地面から30センチメートル程度の高さまで築き上げられた[10]。柱の礎石は基壇の上に据えられる[10]。礎石は自然石であり、柱の加担を削って礎石の上面に合わせる。これをクレンイ法という[11]。床は、土間、マル(板の間)、オンドル床(石床)の三種がある[10]。家屋の柱・梁は木製であり、柱と柱、柱と梁は桁でつなぐ[12]。桁の数は建屋の規模を意味し、桁が2個の建屋は棟木も含めて三梁家、桁が3個の場合は四梁家と表現する[12]。
平面構造は基本的には板の間(マル)とオンドル房を中心とするものであり、そこに台所のような土間部分が加わる[13]。各房に板の間のマルとオンドル部屋が混在することが、韓屋の最大の特徴とされる[14][15]。居室は、床に座って生活する床座を前提としており、備えられる家具も座り机や櫃などの背の低いものが主である[16][17]。ポリョといわれる長座布団、トッチャリといわれる敷物も使われる[18]。
上流・中流階級の住宅
現代の大韓民国では、中流階級以上の家屋、両班階級の班家が韓屋の一般的イメージとして定着しており、瓦葺きの屋根、オンドル、マル(板の間)が韓屋を象徴する要素と扱われる[2][14]。上流住宅は主屋と別棟をいくつか持ち、これらを庭(マダン)で分ける構造を持つ[19]。それぞれの棟は塀と行廊(ヘンラン)で区画される[20]。中流階級の主屋・舎廊棟は四梁家か五梁家の規模で築かれることが多く、上流住宅の場合は五梁家から七梁家となる[12]。屋根の形状は、切妻屋根、入母屋屋根などを建物の用途によって使い分ける[12]。
敷地内での建屋・構造物の配置は、儒教的価値観の影響が強い[9][15]。建物の周囲は牆垣で囲まれ、大門が置かれる。上流住宅の場合、大門の脇には回廊状の建物である行廊棟(ヘンランチェ)が置かれ、倉庫ないし下人の生活の場として用いられる[21]。敷地内部にはオンドル房2つ以上とマルから構成される主屋棟(アンチェ)、主人の日常の場である舎廊棟(サランチェ)が置かれる[19]。主屋棟は主室でありオンドルが設置される内房(アンバン)とその補助空間である上房(ウッパン)、内房に隣接する台所に加え、マルともうひとつのオンドル房である越房(コンノンバン)から構成される[22]。夫人は行廊棟の内房で、主人は舎廊棟のオンドル房である舎廊房(サランバン)で日常生活を送る[19]。
本棚をかまえた空間である書庫(ソコ)は舎廊房に置かれることもあるが、独立した棟ともなる[20]。さらに、祖先の神位牌を祀る祀堂棟(サダンチェ)、床下が吹き抜けになった板の間であり、茶室や主人の勉強部屋などに用いられる楼抹楼(ルマル)、主人の離部屋である別堂(ビョルダン)も設置される[23]。楼抹楼をそえた別堂を設け、その周囲に庭園と蓮池をつくって主人と客、あるいは家族の悠々自適の空間として用いることは、中流以上の家族の通例となっていた[24]。
庶民の住宅
庶民住宅は、主屋と庭からなる比較的単純な構成である[19]。上流住宅が棟ごとに分節される一方で、庶民の住宅は房(バン、部屋)で区画される[25]。庶民住宅においては主屋棟が家族団欒の場となり、夫婦がともにここの内房で過ごす[19]。庶民住宅にも舎廊房が置かれることがあるがこじんまりとしたものであり、ない家も少なくない[20]。
中流階級以上の住宅はおおむね漢城の様式を標準としたものであったが、庶民の住宅は地域によって間取りに地域差がある[26]。これらの平面構造についてはさまざまな分類法が提唱されており、議論がある[27]。きわめて大まかには、朝鮮半島における庶民住宅は部屋が複列に並ぶ複列型民家(キョプチプ)と、単列に並ぶ単列型民家(ホッチプ)に分類される[28][29]。一般的な傾向として、咸鏡南道・咸鏡北道を中心とした朝鮮半島北東部一帯には複列型が、平安北道中部以南の半島北西部から中西部、南部一帯には単列型が多く見られる[29]。
歴史
成立
韓国における住宅建築の歴史は先史時代にまで遡り[30]、紀元前4000年ごろより櫛目文土器文化の担い手が岩山洞遺跡などにみられる竪穴建物を築くようになる[31]。無文土器時代には竪穴は比較的浅くなるとともに垂直な壁が用いられるようになり、豆満江流域では礎石の利用も始まる[32]。三国時代には高句麗にてかまどの煙道を床下に通すオンドルが用いられるようになり[33]、高麗時代、おそらくは13世紀ごろまでに、床全体を温める、現代のオンドルに近い様式に変容した。高麗時代の『東文選』には「冬以燠室、夏以涼庁」との記述があり、このころには上層住宅において部屋全体を温めるオンドル房とマルを中心とする平面構造が成立していたようである[34]。
朝鮮時代には仏教が政治的に弾圧され、寺院の代わりに郷校・文廟・書院といった儒教建築が盛んに建てられた。儒教思想および儒教建築は、住宅建築の空間構成にも影響を与えた[35]。李氏朝鮮時代後期には済州島のような南部地域の庶民住宅においてもオンドルが用いられるようになった。また、庶民住宅においてマルが定着するのもおおむね同時期のことであった[34]。
近現代の変遷
李氏朝鮮時代に確立した伝統韓屋の様式は、19世紀後半以降の近代化政策によって、1920年代から熱源を練炭に変更した改良オンドルが登場するとともに、日本人居留地の日本式住宅や鉄道官舎の影響を受けて玄関の設置、浴場・便所の室内化といった変化を遂げていく[36]。この時期に建築され、壁材にセメント、窓材にガラスなどの新たな建築材料を採用した住宅は改良韓屋といわれる[36]。また、1900年に建築された仁川市の聖公会江華聖堂のようにキリスト教の教会として使用されたものもある[37][38]。
1931年の満州事変を機に朝鮮半島の工業化と都市部への人口集中が進むとともに住宅供給が課題となり、1934年に朝鮮市街地整備計画令が制定され、建売住宅の都市型韓屋がソウル市内を中心に増加していく[39]。これまでの韓屋が多世帯同居の大家族を前提としていたのに対し、都市型韓屋は世帯人員5人程度の核家族を想定したコンパクトな造りを採った[39]。都市型韓屋の建築は朝鮮戦争の休戦後も継続していく[39]。
1986年のアジア競技大会、1988年のソウルオリンピックに向けた都市開発と並行して伝統的な韓屋群の保全も議論の対象となり、ソウル市内の韓屋集合地域の建築規制が強化されていく[40]。
2000年代以降、大韓民国内で伝統回帰の意識が高まり、新築家屋に鉄骨やコンクリートを用いて韓屋風に建てる事例が増え、北漢山の麓に韓屋によるニュータウンとして恩平韓屋村が造成される[41][42]。また、ビル建築においても韓屋風の外観デザインを取り入れる動きがあるほか、2014年頃からソウル市内の益善洞で都市型韓屋を改装した飲食店や土産物店が増加していく[41]。