須成
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河川・池沼
蟹江川の下流域にある[1]。蟹江町には海抜ゼロメートル地帯が広がっており、須成の北端部の標高はマイナス0.66メートルである[2]。
交通
- 蟹江川
- 蟹江川に架かる御葭橋
- 蟹江インターチェンジ
字一覧
- 市場(いちば)[WEB 5]
- 井ノ蕪(いのかぶ)[WEB 5]
- 大西(おおにし)[WEB 5]
- 奥ノ坊(おくのぼう)[WEB 5]
- 上惣作(かみそうさく)[WEB 5]
- 川西上(かわにしかみ)[WEB 5]
- 川西下(かわにししも)[WEB 5]
- 北土深毛(きたどぶけ)[WEB 5]
- 操込新田(くりこししんでん)[WEB 5]
- 五右エ渕(ごえぶち)[WEB 5]
- 五明(ごみょう)[WEB 5]
- 佐屋(さや)[WEB 5]
- 下惣作(しもそうさく)[WEB 5]
- 下之割北(しものわりきた)[WEB 5]
- 下之割南(しものわりみなみ)[WEB 5]
- 高畑(たかばた)[WEB 5]
- 敵目(てきめ)[WEB 5]
- 中大鳥(なかおおどり)[WEB 5]
- 長田(ながた)[WEB 5]
- 西市之坪(にしいちのつぼ)[WEB 5]
- 西大鳥(にしおおどり)[WEB 5]
- 西河原(にしかわはら)[WEB 5]
- 西五本田(にしごほんだ)[WEB 5]
- 西須成前(にしすなりまえ)[WEB 5]
- 西中新開(にしなかしんかい)[WEB 5]
- 西矢倉下(にしやぐらした)[WEB 5]
- 西輪庄(にしわしよう)[WEB 5]
- 禰宜新開(ねぎしんかい)[WEB 5]
- 乗田(のりた)[WEB 5]
- 東市之坪(ひがしいちのつぼ)[WEB 5]
- 東大鳥(ひがしおおどり)[WEB 5]
- 東河原(ひがしかわはら)[WEB 5]
- 東五本田(ひがしごほんだ)[WEB 5]
- 東須成前(ひがしすなりまえ)[WEB 5]
- 東中新開南ノ切(ひがしなかしんかいみなみのき)[WEB 5]
- 東矢倉下(ひがしやぐらした)[WEB 5]
- 古苗代(ふるなえしろ)[WEB 5]
- 松下(まつした)[WEB 5]
- 南五本田(みなみごほんだ)[WEB 5]
- 門屋敷上(もんやしきかみ)[WEB 5]
- 門屋敷下(もんやしきしも)[WEB 5]
- 山方(やまかた)[WEB 5]
- 与源太(よげんた)[WEB 5]
- 六白(ろくばく)[WEB 5]
- 脇之田(わきのた)[WEB 5]
歴史
地名の由来
『尾張国地名考』には地名の由来として「正字沙成(すななり)なるべし」とある[1]。当地は木曽川下流のデルタ地帯であり、開発時には砂や泥の多い土地であったために「砂成」(すななり)と呼ばれ、「須成」の表記となったという[1]。
近世
常楽寺は七堂伽藍を有する大寺院だったが、天正12年(1584年)に羽柴秀吉陣営と織田信雄・徳川家康陣営の間で行われた蟹江城合戦の際に兵火に遭い、龍照院などわずかな建物が残るのみとなった[1]。江戸時代には尾張国海東郡に須成村があり、尾張藩領で佐屋代官所の支配を受けていた[1]。江戸時代には蟹江川による漁獲の多い集落だった[1]。
寛文年間(1661年~1673年)に編纂された『寛文郷帳』による村高は1373石余であり、同時期に尾張藩によって編纂された『寛文村々覚書』には家数158・人数776とある[1]。寛政年間(1789年~1801年)以後に尾張藩士の樋口好古によって編纂された『尾張徇行記』には戸数240・人数1044とある[1]。天保年間(1831年~1845年)に編纂された『天保郷帳』による村高は1373石余[1]。
近代
明治時代初期に編纂された『旧高旧領』による村高は2141石余[1]。1889年(明治22年)、町村制の施行によって海東郡須成村が発足した[1]。1891年(明治24年)の戸数は351、人口は1451だったが、同年10月28日に発生した濃尾地震では住家139が全壊、住家62が半壊、死者2という大きな被害を受けた[4]。1906年(明治39年)、須成村など3村が合併して蟹江町が発足し、大字須成が設置された[1]。
現代
太平洋戦争以前には農業中心の集落だったが、戦後には第二次産業への転換が進んだ[1]。戦前の1938年(昭和13年)には近鉄名古屋線が開業していたが、戦後には須成の東部に住宅団地などが造成され、名古屋市のベッドタウン化が進んだ[1]。1969年(昭和44年)の世帯数は1157、人口は4513[1]。
施設
祭礼

8月第1土曜・日曜、冨吉建速神社・八剱社の祭礼として、「車楽船行事」と「神葭流し」から成る須成祭が開催される。2012年(平成24年)には須成祭が重要無形民俗文化財に指定され、2016年(平成28年)には「山・鉾・屋台行事」の一部としてユネスコの無形文化遺産に登録された[WEB 7]。
「車楽船行事」では8月第1土曜に宵祭、第1日曜に朝祭が行われ、宵祭では提灯をともした巻藁舟が、朝祭では神の人形を乗せた車楽船が蟹江川を上る[WEB 7]。蟹江川に架かる跳開橋である御葭橋(みよしばし)は、車楽船が通る2日間のみ跳ね上げられる。「神葭流し」では蟹江川の河岸に茂るヨシを刈り、神体として冨吉建速神社に祀った後、災厄をヨシに託して蟹江川に流す[WEB 7]。ヨシを燃やすことで神葭流しは終了する[WEB 7]。
- 須成祭の朝祭
- 蟹江町観光交流センター祭人における須成祭の展示
名所・旧跡

- 冨吉建速神社・八剱社 - 旧社格は郷社。二社を総称して須成神社と呼ぶ場合もある[WEB 7]。天平5年(733年)に行基によって創建され、寿永元年(1182年)に源義仲によって再興されたと伝わる[WEB 7]。天文17年(1548年)には織田信長が社殿を修復したと伝わる[5]。冨吉建速神社本殿、八劔社本殿が重要文化財[WEB 8][6]。
- 御嶽神社
- 龍照院 - 真言宗智山派の寺院[WEB 7][WEB 9]。冨吉建速神社・八剱社と同様に天平5年(733年)に行基によって創建され、寿永元年(1182年)に源義仲によって再興されたと伝わる[WEB 7][WEB 9]。尾張三十三観音霊場13番札所[WEB 9]。木造十一面観音立像が重要文化財[WEB 8][WEB 9]。大日如来坐像、鰐口が蟹江町指定文化財[WEB 8][WEB 9]。須成龍照院のイチョウが蟹江町天然記念物[WEB 8][WEB 9]。
- 善敬寺 - 真宗大谷派の寺院。かつては本證寺の末寺だった。
- 松秀寺 - 曹洞宗の寺院。蟹江町では唯一の禅宗の寺である。2003年(平成15年)に須成西7丁目に移転するまでは須成字市場にあった。
- 龍照院

