須賀川城攻防戦に至る政治的背景には複雑なものがあり、大乗院が権力を掌握するために家中に影響力を持つ箭部義政・須田盛秀の両重臣を排除しようとしたことが、家臣団が伊達氏に寝返ることになった一因だと指摘する白河氏家臣・一休斎善通の書状が残されている。一方で、箭部義政と須田盛秀の間でも対立があり、伊達政宗は早くから親伊達派の姿勢を取ってきた箭部を評価しており、反対に箭部の親伊達派路線を妨害する須田を「悪逆」の徒と断定して「無二無三奉公之義難計候」(亘理伊達家文書所収・天正17年10月22日付伊達成実宛政宗書状)と述べ、大乗院や保土原行藤(親伊達派)に須田の追放を求める書状を送っている。伊達政宗の須賀川侵攻の目的は二階堂氏の親伊達派に敵対する者――つまり、須田盛秀の排除を目的としていたため、盛秀は徹底抗戦をせざるを得なかったと考えられている[1]。