本多正勝
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生い立ち
慶長16年(1611年)1月15日、16歳で従五位下・出羽守に叙任[1]。両度の大坂の陣にも参加し、慶長20年(1615年)5月7日の天王寺・岡山の戦いでは首級を挙げた[1]。
本多正純の改易
元和8年(1622年)、下野国宇都宮藩15万5000石の藩主であった正純は、出羽国山形藩最上家改易のため出張中に改易を命じられ、同国由利(現在の秋田県由利本荘市周辺)に移された。正純は5万5000石を支給すること(本荘城を中心とする「本荘藩」への減転封[3][4])を示されたが固辞したといい[5][6][7]、一般に「配流」と表現されている[6][5]。元和9年(1623年)に大沢(現在の大仙市大沢郷地区[8])に移され、賄料として1000石を与えられた[5][6]。寛永元年(1624年)、久保田藩主佐竹義宣に預けられた[5][6]。
正勝は、父の処分に連座し、出羽への配流をともにしている[6]。正勝には正室(戸田氏鉄の娘)との間に生後間もない長男(本多正好)があったが、正好は父らの配流後、外祖父の戸田氏鉄のもとに引き取られている[6]。
横手に死す
佐竹義宣は、横手城代・須田盛秀に正純・正勝父子の身柄を預けた[9]。以後彼らは横手(現在の横手市)に住し[5][6]、1000石が支給された[6]。横手城の三の丸に相当する高台に本多正純(上野介)父子を幽閉する居館が築かれた[9]。のちに父子の墓が設けられたため、この高台一帯は
寛永7年(1630年)5月10日、横手において死去[1]、享年35[1]。父に先立った[6]。横手の正平寺に葬られた[1]。
なお、正勝が没した寛永7年(1630年)には、二男・本多正之が誕生している。正之は「所縁」のある尾張藩付家老の成瀬正虎に引き取られて尾張国犬山で成長し、寛文4年(1664年)に赦免を受けて幕臣に取り立てられている。
