豊前国中津生まれ。藩校進脩館で学び塾長になり、慶應義塾に入り五等に進級する。1876年(明治9年)に東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)中学師範学科の嘱託教授、1879年(明治12年)より1881年(明治14年)まで同校訓導を嘱された。1882年(明治15年)時事新報に入社。1884年(明治17年)より福岡県の中学校一等教諭として豊津中学校在勤、1885年(明治18年)に福岡師範学校校長兼教諭に任じられた。翌年の学制改革に伴い、1887年(明治20年)に師範学校教育科の教員免許を正式に授与され、一時的に文部省雇として学務局兼編輯局詰を経て、1888年(明治21年)に神奈川県尋常師範学校教諭に任じられた。以後、神奈川県尋常師範学校、岩手県尋常師範学校、佐賀県尋常師範学校の校長を歴任。1898年(明治31年)3月に非職を命じられ[3]、翌年3月に非職満期。その後、日本完全肥料取締役、全国肥料取次所監査役、彌富商会取締役、ラサ島燐礦(現ラサ工業)監査役、小幡記念図書館理事を歴任した。