養由基
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楚の荘王・共王に丈夫として仕え、射術の妙によって有名となる。その弓勢の強さは甲冑7枚[1](異説では盾7枚[2])を貫き、蜻蛉の羽根を射ることができ[3]、また100歩離れて柳の葉を射て百発百中であったという[4][5][6]。楚王はかつて白猿を飼い自分で射てみたが、白猿は飛んでくる矢を捕らえて戯れたので、養由基を召して射させることにした。養由基が弓をととのえて矢をつがえ、まだ発しないうちに白猿は泣き叫んで木にしがみついたという[7]。また共王が戦に敗れたとき、養由基は殿(しんがり)をつとめ1本の矢で複数の兵を倒す妙技を発揮し、敵を近寄せなかったともいう[8]。
さらに、養由基が岩を兕と見誤り、矢で岩を射抜いたという伝説も残っている[9]。前漢の弓の名手・李広にも、同様の逸話が存在する。『水滸伝』の登場人物・花栄と龐万春は、その卓越した弓術により、それぞれ「小李広」「小養由基」との異名で呼ばれている。
鄢陵の戦いで、晋の大夫・魏錡が楚の共王の目を射た。共王が二本の矢を与えると、養由基は一本だけで魏錡を射殺し、復讐を果たすと、残る一本を返した[10]。明の歴史小説『東周列国志』では、兵士が「養一箭」(二本目の矢を要らぬ者)と称し[11]、その神箭は百万の軍も恐れないと讃えたが、共王は「彼は弓の技によって死ぬだろう」と予言する[12][13]。小説における養由基は吳軍の伏撃に遭い「万箭穿心」の最期を遂げた[14]。しかし史実では、庸浦の戦いで勝利し、吳の公族・党を捕虜とした功績で宮厩尹に任命された後[15]、その最期は不明である。明の神魔小説『平妖伝』では、仙術を修めた白猿が養由基を恐れて逃げ、共王が山林を伐り尽くしても発見できず、百年後、越に隠れた白猿は越女剣術の開祖となった[16][17]。
現代では「百発百中」(ひゃっぱつひゃくちゅう)「百歩穿楊」(ひゃっぽせんよう)「猿号擁柱」(えんごうようちゅう)などの四字熟語とともに知られており、鄭問の漫画『東周英雄伝』24・「放言の神箭手」でその勇姿が描かれている。
日本の伝承
平安時代の説話集『今昔物語集』には、かつて天に十体の太陽が現れ、干魃を引き起こし、養由基がそのうち九つを射落としたと記されている。この射日神話は、元々は神射手・羿の偉業の一つである[18]。
なお、軍記物語『前太平記』と『源平盛衰記』では、文殊菩薩の化身とされる養由基が、菩薩の双眼が化した二本の鏑矢・「水破」(すいは)「兵破」(ひょうは)、および五台山の両頭の大蛇が法衣の糸と八尺五寸の弦で作った名弓・「雷上動」(らいしょうどう)を持っていたとされる。養由基は700年生きたが、天下を見渡しても後継者を見つけられず、死前に弓と矢を娘の椒花女(しょうかじょ)に授けた。多年後、椒花女は扶桑(日本)に渡来し、「雷上動」「水破」「兵破」を文殊菩薩の別の化身である源頼光に授け、その後、玄孫の源頼政に伝えられた[19]。