首領を殺った男
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撮影
1993年暮れの東映社内会議で岡田茂会長から「あまりに客が入らないからヤクザ映画をやめよう」[1][2][3][4][5]「当たらないもの、赤字を生むものは作らぬよう」という指示が出た[5]。ヤクザ映画は一定のファンを持ち、ビデオの売上げも良いため、年1~2本の製作が続けられていたが、1993年に公開された『継承盃』『極東黒社会』『修羅場の人間学』が[3]惨憺たる結果に終わり、特に『修羅場の人間学』は記録的な不入りを記録した[1]。事態を憂慮した岡田の発言に一部のマスメディアが「東映がヤクザ路線撤退」と報道し、騒ぎに火が点いた。高岩淡東映社長も「これは岡田会長の励ましの言葉。公式発言ではない」と否定したが、「努力してダメなら決断しなければならない」と話し事態の深刻さを物語った[4]。
これらの発言を受け、1994年1月26日にクランクインしたのが本作だった。京都撮影所では「これが最後かも知れない」と危機感を強め、本社サイドも「これが失敗したらヤクザ映画をやめる」と言明したため、「日本映画最大の路線が30年でピリオドを打つか!?」などとマスメディアが書き立て[5]、日本のマスメディアだけではなく、『ワシントンポスト』までが報道するほど騒ぎが拡大した[4]。関根忠郎東映宣伝部チーフ・プロデューサー率いる宣伝チームは[5]、この騒ぎを逆手にとって《仁義が生きて帰ってきた。ヤクザ30年、男の決算》などと「最後のヤクザ映画」を押し出すキャッチコピーで売り込む抜け目なさで[1][5]、出演者も「この作品を最後のヤクザ映画にしてはならない」と並々ならぬ意気込みで取り組んだ[4][5]。
松方が『天才・たけしの元気が出るテレビ!!』に出演中で撮影クルーが松方の姿を追った[3]。松方は大人気で、ロケで松方を見ると見物人が皆笑い、中島貞夫は「ヤクザ映画をやるには辛い」と話した[6]。菅原文太や梅宮辰夫、山城新伍はオファーがないにも関わらず自ら売り込んで出演した[6]。
ロケ地
製作費
5億円[3]。