馮宿

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馮 宿(ふう しゅく、766年 - 837年)は、唐代官僚は拱之。本貫婺州東陽県[1]

貞元8年(792年)、進士に及第し、徐泗節度使の張建封に召し出されて掌書記となった。貞元16年(800年)、張建封が死去すると、その子の張愔が軍士に擁立されたが、淄青節度使の李師古がその喪に乗じて徐州を奪取しようと図った。成徳軍節度使の王武俊がその情勢を観望していたため、馮宿は混乱を座視しないよう説得した。王武俊が朝廷に上奏して、張愔は節度使の位を嗣ぐことができた[2][1]

馮宿は浙江東道観察使の賈全に召し出されて張愔のもとを去ったことから、張愔に憎まれて、泉州司戸参軍に左遷された。長安に召還されて太常寺博士となった。元和4年(809年)、成徳軍節度使の王士真が死去すると、その子の王承宗が朝廷に従わなかったため、諡号が加えられなかった。馮宿は王士真の功労を嘉して美諡を加えるよう上奏した。馮宿は虞部員外郎・都官員外郎を歴任した[2][3]

元和12年(817年)、馮宿は裴度の東征に従軍して、彰義軍節度判官をつとめた。淮西の呉元済の乱が鎮圧されると、馮宿は比部郎中に任じられた。韓愈仏骨を論ずる表を上表すると、馮宿がその草稿を作ったものと宰相に疑われ、歙州刺史として出向した。入朝して刑部郎中となった。元和15年(820年)、判考功司事をつとめた[2][4]

長慶元年(821年)、馮宿は本官のまま知制誥をつとめた。長慶2年(822年)、兵部郎中に転じた。牛元翼が山南東道節度使に任じられたが、成徳軍節度使の王庭湊深州で包囲されて赴任できなかった。そこで馮宿が検校太子右庶子となり、御史中丞を兼ね、総留務として襄州に赴任した。牛元翼が襄州に着任すると、馮宿は帰朝し、中書舎人に任じられ、太常寺少卿に転じた[5][4]

長慶4年(824年)、敬宗が即位すると、馮宿は華州刺史とされた。父の名と被る官職を忌避して退任を願い出て、左散騎常侍に転じ、集賢院学士を兼ね、考制策官をつとめた[5][4]

大和2年(828年)、馮宿は河南尹に任じられた。ときに洛陽宮苑使の姚文寿が部下を勝手に動員して民衆の耕作地を奪っていたが、官吏はかれを逮捕しようとしなかった。姚文寿が部下を引き連れてやってきたところを、馮宿は襲撃して捕らえ、杖罰を加えて死なせた[5][4]

大和4年(830年)、馮宿は入朝して工部侍郎となった。大和6年(832年)、刑部侍郎に転じ、『格後勅』30巻を編纂した。兵部侍郎となった。大和9年(835年)、検校礼部尚書梓州刺史・剣南東川節度使として出向した[5][4]

開成元年12月3日(837年1月13日)、馮宿は死去した。吏部尚書の位を追贈された。諡は懿といった。著書に『文集』40巻があった[5][4]

家族

  • 曾祖父:馮盎
  • 祖父:馮智戴
  • 父:馮子華[1]
  • 弟:馮定
  • 従弟:馮審
  • 従弟:馮寛
  • 子:馮図(字は昌之、戸部侍郎・判度支)[5][4]
  • 子:馮陶
  • 子:馮韜[5]

脚注

伝記資料

参考文献

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