馮暉
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経歴
はじめ軍士として尽力し、武勇と騎射で軍隊の中で幅を利かせた。楊師厚に仕えて隊長となった。晋王李存勗が魏州に入ると、馮暉は銀槍で尽力して王の近衛となり、梁軍と河上で対陣した。馮暉は薄給をきらって、後梁に亡命し、後梁の将の王彦章の麾下に入った[1][2]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗(李存勗)が河南を平定すると、馮暉は出頭して処罰を求め、離反の罪を赦された。同光2年(924年)、李嗣源による潞州征討に従い、楊立を討つのに功があった。同光3年(925年)、魏王李継岌に従って前蜀を討った。蜀が平定されると、馮暉は夔州刺史に任じられた。天成2年(927年)、荊南の高季興が反乱を起こし、荊南の兵が夔州の城に攻め寄せたが、馮暉はこれを阻んで、たびたび荊南軍を撃退した。長興年間、興州刺史となり、乾渠を治所とした。剣南東川節度使の董璋が反乱を起こすと、馮暉は反乱軍の進攻を受けて、衆寡敵せず、鳳翔府に逃げ帰った。馮暉は敗戦の罪により同州衙職として安置された。ほどなく石敬瑭に従って董璋を征討し、蜀兵の守る剣門を迂回攻撃して、守兵を殲滅した。石敬瑭が軍を返すと、馮暉は澶州刺史に転じた[1][2]。
後晋の天福2年(937年)、范延光が鄴に拠って叛くと、馮暉は馬歩都将に任じられ、六明鎮から黄河を渡って、滑台を襲撃しようとした。ほどなく晋軍に敗れ、馮暉は鄴に撤退して、范延光のために城を守った。翌年秋、馮暉は出戦して後晋に降伏し、義成軍節度使・検校太傅となった[1][2]。天福4年(939年)、朔方軍節度使に転じた[3]。馮暉が霊州に着任すると、西北の諸部族を懐柔し、屯田を広げて官庫を充実させた。党項の拓抜彦昭と交易して、年に馬5000匹を得た[4][5]。
開運2年(945年)8月、馮暉は邠州静難軍節度使に任じられた[6]。11月、侍衛歩軍都指揮使を兼ねた[7]。開運3年(946年)3月、河陽節度使となった[8]。6月、再び朔方軍節度使に転じ[9]、検校太師を加えられた[10]。
天福12年(947年)、後漢の高祖劉知遠が即位すると、馮暉は同平章事を加えられた。乾祐元年(948年)、隠帝劉承祐が即位すると、馮暉は侍中を兼ねた。後周の広順元年(951年)、中書令を加えられ、陳留王に封じられた。広順3年(953年)夏、病没した。享年は60。衛王に追封された[10][11]。