駒形十吉
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大光相互銀行社長
長岡の米穀・味噌醤油醸造を営んでいた駒形宇多七の三男(11人兄弟の10番目)として生まれる[2]。新潟県立長岡中学校卒業後、旧制新潟高等学校に進むが中退。大阪の株式取引商で実務経験を積んだ[2]。
1922年(大正11年)父の死去に伴い、帰郷し家業に従事する。1928年(昭和3年)に北陸産業無尽の設立に参画し支配人、1941年(昭和16年)に社長となる。翌1942年(昭和17年)3月には国民無尽商会と合併し、大光無尽に商号を変更し、1951年(昭和26年)に大光相互銀行に改組した。
田中角栄とは昵懇で、田中が落選した戦後の第1回選挙からスポンサーを務め[3]、10歳以上若い田中のことを、近しさから「角」と呼び捨てにした[4]。田中が蔵相のときには田舎の相銀にかかわらず関東に3つの支店を作った[3]。1970年(昭和45年)、十吉の銀行私物化の振る舞いを49人の支店長・部長が告発、家族内の争いも手伝ってクーデターが発生する[4]。債権取り立て益の私物化、あるいは私邸の改修費や1年の半分を保養で過ごす熱海の施設経費を銀行から支出したり、親族企業へ不正融資を行うなど、告発内容は多岐にわたった[4]。
同年、十吉は会長に退き、婿養子の斉(2004年死去)が社長に就任した。1979年(昭和54年)4月、大光相互は簿外債務保証が743億円に達していることが明らかになり、214億円もの累積赤字を計上した。秋には強制捜査を受け、斉は特別背任で逮捕され、1980年(昭和55年)春、上場廃止となった。こののち、大光相互は、都市銀行・地元地方銀行・全相互銀行等88機関から540億円の低利融資を受け再建を図り、1988年(昭和63年)に融資返済で再建を完了させ、1989年(平成元年)普銀転換、2019年(令和元年)5月には40年ぶりに生え抜きのトップが誕生している[5]。
新潟総合テレビ社長
新潟総合テレビ(NST)の設立を中心となって動いたが当初は表に出ず[3]、1972年(昭和47年)、初代社長の桜井督三の急死で空いた社長ポストに、田中の全面支持を得て滑り込んだ[4]。テレビ局は追われた銀行と同じく私物に等しく[4]、「テレビの経営も家業でなくてはならない」というのが持論で、98歳で亡くなるまで経営権を離すことはなく、社長在職期間は26年余りに及んだ[4]。開局にあたってはフジテレビ、日本テレビ、NETテレビ(現・テレビ朝日)から幹部が派遣され、3つのキー局のクロスネットだったが、やがて十吉は、3社を相互に競わせネット保障費を釣り上げるようになった[4]。また、社員数を第1局である新潟放送(BSN)の3分の1に抑え、自社製作をきわめて少なくした。これによってNSTの申告所得は、開局からわずか10年後には県内企業で第4位に跳ね上がった[6]。
1998年(平成10年)秋には腸閉塞の手術を受け、経過は良好に推移していたが、体力回復に時間がかかることを理由に、翌年1月25日の取締役会で社長を退任。後継には副社長の近藤源資が昇格した[7]。
1999年(平成11年)2月7日18時17分、急性心不全のため、新潟市内の病院で死去[1]。98歳没。
ラジオ新潟設立に関わる
このほか、十吉は長岡のみならず新潟経済界の有力者であったことから、当地初の民放局・ラジオ新潟(RNK、現・新潟放送)の設立にも関わった[8]。設立は1952年(昭和27年)で、まずラジオを開局し、1958年(昭和33年)にテレビを開局し、新潟放送(BSN)と改称。十吉は監査役に就いている[8]。
人脈など
美術品収集家
著書
句集
- 『柿 駒形十吉句集』NSTサービス、1985年6月。
- 『栗 駒形十吉句集』NSTサービス、1987年5月。
- 『桃 駒形十吉句集』NSTサービス、1992年4月。