高ヨク
From Wikipedia, the free encyclopedia
元和初年、進士に及第し、秘書省校書郎に任じられた。右補闕に累進し、史館修撰をつとめた。元和14年(819年)、京北京西和糴使となった。元和15年(820年)、起居郎に転じた[1][2]。
高釴は孤高実直で党派に属さず、時政の得失をよく述べることができた。長慶元年(821年)、本官のまま翰林学士をつとめた。長慶2年(822年)、兵部員外郎となった。長慶4年(824年)4月、禁中で張韶の変が起こると、敬宗は左神策軍に避難した。この夜、高釴は帝に従って左神策軍に宿営した。翌日、反乱が鎮圧されると、高釴は錦彩70匹を賜り、戸部郎中・知制誥に転じた。12月、中書舎人に任じられた[3][2]。
宝暦2年(826年)3月、本官のまま翰林学士を退任した。大和3年(829年)7月、刑部侍郎に任じられた。大和4年(830年)冬、吏部侍郎に転じた。大和7年(833年)、同州刺史として出向し、御史中丞を兼ねた。大和8年(834年)6月、死去した。兵部尚書の位を追贈された[4][2]。