高万興
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経歴
軍事の才能があって、保塞軍で任用された。邠寧節度使の王行瑜の敗死後、鄜延の州県はいずれも李茂貞に占拠された。李茂貞の将の胡敬璋が鄜延節度使となり、万興はその下で騎将となり、兄弟たちとともに戦功があった。邠州節度使の楊崇本が李茂貞の仮子となり、李継徽と名乗った。朱全忠が昭宗を殺害すると、李茂貞と李継徽は西川節度使の王建と岐陽で軍を合流させ、唐朝の復興を名目に、関中に陣を布いた。朱全忠は将の王重師を派遣して雍州を守らせ、劉知俊に同州を守らせて李茂貞らを阻んだ[1][2]。
天祐5年(908年)冬、胡敬璋が死去すると、楊崇本はその将の劉万子を鄜延節度使としたが、劉万子は凶暴で士心を失った。さらに楊崇本は後梁の軍に攻撃された。天祐6年(909年)2月、劉万子が胡敬璋を葬り、将軍や幕僚たちを会葬所に集めると、万興は弟の高万金とともに兵を率いて劉万子を攻めて殺害し、後梁に帰順した。万興は後梁の太祖(朱全忠)により鄜延招撫使とされ、劉知俊と兵を合流させて鄜州・坊州・丹州・延州などを奪った。太祖が4州を分けて2節度を置くと、万興と高万金は節度使となった。高万金が死去すると、万興は太祖により彰武軍・保大軍両節度使を兼ね、太師・中書令を加えられ、北平王に封じられた[1][3]。
同光元年(923年)、後唐の荘宗が華北を平定すると、万興は後唐に入朝して、以前の官爵を安堵された。同光3年(925年)12月、在官のまま死去した[1][4]。