応永29年(1422年)従三位・非参議に任ぜられ、公卿に列する。応永31年(1424年)参議に昇進するも翌年辞する。応永34年(1427年)延暦寺僧徒の訴えにより流罪に処せられる[2]。翌応永35年(1428年)出家。法名は常光[3]。
永享6年(1434年)3月9日、公卿・日野義資が何者かに襲われ不慮の死を遂げる[4]。襲撃犯は捕まらなかったが、永藤はこの事件を将軍足利義教の仕業であると噂した[5]。この噂を知った義教は激怒し[5]、同年6月12日、永藤は薩摩国硫黄島への流罪に処された[6]。2年後の永享8年(1436年)1月配流先で死去[7]。享年52。