高山公通
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薩摩国大口郷里村(後の牛山郷里村、鹿児島県北伊佐郡大口村、伊佐郡大口村、大口町を経て、合併で大口市、伊佐市)生まれ[3]。永井藤兵衛の二男として生れ、高山信助の養嗣子となる[1]。1889年(明治22年)7月、陸軍士官学校(旧11期)を卒業[2]、歩兵少尉に任官し歩兵第23連隊付となる[1][4]。1899年(明治32年)12月、陸軍大学校(13期)を卒業した[1][2][4]。1900年(明治33年)5月、第12師団参謀となり、清国差遣(貴州駐在)、大本営参謀を経て、1904年(明治37年)6月、第3軍司令部付となり日露戦争に出征[1][2]。歩兵第48連隊大隊長を経て、奉天会戦直後、歩兵第32連隊長に発令された[1][2][4]。
1905年(明治38年)6月、後備混成第8旅団参謀長に就任し、関東総督府付、第4師団参謀長を歴任[1][4]。1908年(明治41年)12月、歩兵大佐に昇進[1][4]。参謀本部付(奉天特務機関長)、歩兵第2連隊長を経て、1914年(大正3年)8月、陸軍少将に進級し歩兵第25旅団長に就任した[1][2][4]。
1916年(大正5年)8月、関東都督府参謀長となり、1918年(大正7年)7月、陸軍中将に進み独立守備隊司令官に就任[1][2][4]。1919年(大正8年)7月、第18師団長に親補された[1][2][4]。1922年(大正11年)8月、待命となり、翌年3月、予備役に編入された[1][2][4]。のち、関東國粹会会長を務めた[1]。墓所は多磨霊園(21-1-31-1)