高山正行
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高山 正行(たかやま まさゆき、1942年(昭和17年)- )は、日本最初のプロ和太鼓奏者[1]。越前龍天太鼓宗家。福井県福井市出身。1965年(昭和40年)、関西プロダクション株式会社(現・吉本興業ホールディングス株式会社)にスカウトされ、1966年(昭和41年)、大阪市内で、日本芸能界初となるプロ和太鼓集団・王将太鼓[1]を結成し吉本興業舞台デビュー。一躍、看板スターとなり多くの主要舞台に立った。後年は活動の中心を北陸地方に移し、和太鼓チームの結成や指導などに数多く携わっている。福井県太鼓協会創立者。夫人は、元フジテレビアナウンサーで、元最大手ファッション誌のファッションモデル。また、大映(現・株式会社KADOKAWA)社長で映画制作者の永田雅一は夫人の叔父。
人物
幼児期から太鼓の音に対して極端な反応を示し、祭太鼓はもとより町回りの太鼓を遠方まで付いて回る有り様であった。高校時代には既にあらゆる祭の野良打ち場で大人に混じり太鼓を打つようになった。この頃、北陸3県の祭り・催事を仕切っていた永井末作に和太鼓の才能を見い出され、1960年(昭和35年)、高校卒業と同時に、1950年(昭和25年)に舞台興行の和太鼓芸能として日本で初めて誕生した「豊年太鼓福井みどり会」[2]に入会。以後約4年間、永井の付き人を兼ねて、福井県、石川県を中心に様々な舞台経験を積んだ[3]。こうした最中、1965年(昭和40年)、関西プロダクション株式会社(現・吉本興業ホールディングス株式会社)にスカウトされ、翌1966年(昭和41年)2月、大阪にて日本芸能界初のプロ和太鼓集団・王将太鼓が結成され芸能界デビューを果たした[1]。王将太鼓時代の後は和太鼓奏者を生業とせず、海外からの度重なる公演招待も一切断り、北陸地方を主として一定の領域にとどめた活動に終始している。地域風土ごとの伝統や特色を重んじた郷土芸能としての和太鼓発展を強く望んでおり、これが高山の一貫した考えとなっている。地域を越えて画一化グローバル化されつつある日本和太鼓界において異色の人物と評価できよう[4]。1979年(昭和54年)、ふるさと福井80選(主催:福井新聞社 後援:福井県)の「第13位」に選ばれた。また、1984年(昭和59年)には、ふるさと福井85選(主催:福井新聞社 後援:福井県)で「ふるさと文化賞」を受賞。ただ、40年間にわたり、叙勲等の受章は固辞し続けている。なお、高山は自身のことを和太鼓奏者ではなく「一介の太鼓打ち」と自称している。
プロからアマチュアへの転身
越前龍天太鼓宗家として
最近の活動
エピソード
- 東京の江戸三大祭りで有名な深川富岡八幡葵太鼓(会長:滑川智大・江戸川区太鼓連盟発表会審査委員長)の曲目には、高山の名前を冠した「酒豪乱れ打ち・高山」がある。これは、高山の和太鼓に魅せられた滑川智大がその奏法を広めようと作られた曲である[5]。
- 福井市には市の職員だけで結成した和太鼓団体「不死鳥太鼓」が存在している。本格的に太鼓チーム化されたのは、高山(当時19歳)を指導者に招いてからであり、以降、「福井フェニックスまつり」「100万人のためのマーチング」など活動の場が大いに広がった。
- 後に福井市長となる坂川優とは高山が20歳代から兄弟のような間柄であった。
- 福井市に太鼓道場を設けてプロとして活動を行っていた車屋正昭(2023年逝去)(響太鼓代表・車屋グループ代表・車屋正昭太鼓道場主宰)は、高山が結成した越前龍天太鼓に6年間メンバーの一員として在籍していた。
- 1981年(昭和56年)11月1日 - 福井県庁内で行われた世界初の「100人太鼓」の企画・構成・演出を担当。
- 弟子をとらない高山だが、その太鼓においては裏方で「人」を支えることを美徳としており、特定の師をもたないことで知られる川筋義也(第2回東京国際和太鼓コンテスト最優秀賞)は、高山の献身的で謙虚な「芸道職人」の姿に敬意を表している。
- 高山右近の直系の末裔である。
主な交流人物
主なテレビ・映画出演歴
- ズバリ!当てましょう (1969年9月25日フジテレビ第7スタジオ収録・司会:泉大助、松本めぐみ・全国放映)
- 競演福井の太鼓 (特集番組・1981年5月22日NHK全国放映)
- 風雪を越えて (福井県企画ドキュメンタリー映画・1982年公開)
- Live News イット! (2020年2月11日フジテレビ全国放映)
- ザウルス・今夜も掘らナイト (2020年9月18日NHK放映)
- ワールドビジネスサテライト (2021年9月28日テレビ東京全国放映)