高懐徳
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天平軍節度使の高行周の子として生まれた。顕徳元年(954年)、後周の世宗が即位すると、東西班都指揮使・鉄騎軍都虞候に任じられた。その年に高平の戦いでは先鋒を務め、北漢軍を撃破し、殿前都虞候に昇進した[1]。
建隆元年(960年)、陳橋の変に最初に趙匡胤に黄袍を加えて万歳を三唱し、即位を主導した。宋が建国されると、侍衛親軍馬歩軍都虞候・河陽節度使に任じられた[1][2]。
建隆2年(961年)、杯酒釈兵権で石守信・慕容延釗らとともに酒宴に招かれ、翌日ただちに病と称して兵権を返上した。その後に忠武軍節度使・帰徳軍節度使を歴任した。淳化3年(982年)に病没した。享年は57。太宗は「忠毅」と諡し、使持節・彰徳軍節度使を追贈した[1][3]。