高智周
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隋の秘書学士の高子長の子として生まれた[3]。若くして学問を好み、進士に及第し、越王府参軍に任じられた。費県県令に転じると、県丞や県尉と俸給を均分し、かれの統治による教化が行われて、民衆や官吏がかれを称える文章を石に刻んだ。ほどなく智周は秘書郎・弘文館学士となり、『瑶山玉彩』・『文館辞林』などの編纂に参与した。三度異動して蘭台大夫(秘書丞)となった。李弘が皇太子だったとき、智周は司文郎中(著作佐郎)の賀凱や司経大夫(洗馬)の王真儒らとともに侍読となって、儒学を教授した。総章元年(668年)、病と称して職を去った[1][2]。
総章2年(669年)、寿州刺史として起用された。寛容な統治で民衆を安堵させた。学官や諸生と会見することを優先して、五経の解釈や時政の得失を諮問し、その後に農事や刑事裁判の事務を処理した。咸亨2年(671年)、長安に召還されて諫議大夫に任じられ、検校礼部侍郎を兼ねた[1][2]。
のちに黄門侍郎となった。上元3年(676年)6月、同中書門下三品(宰相)となった[4]。調露元年(679年)8月、修国史を兼ねた。11月、宰相を退任し[5]、御史大夫に転じた[6]。薛元超や裴炎とともに章懐太子李賢の事件を捜査した。重ねて上表して辞職を求め、高宗に聞き入れられて、右散騎常侍に任じられた。さらに引退を願い出て、致仕を許された。永淳2年(683年)10月、家で死去した。享年は82。越州都督の位を追贈された。諡は定といった[1][2]。