裴炎
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人物
若年の頃より向学な人物であったとされる。『左伝』によく精通したことでも知られ、弘文館で学問を極めて以降は明経に及第し、濮州司倉参軍に任ぜられる。その後、高宗に重用されて御史や起居舎人、更に黄門侍郎などを歴任する。次いで680年には同中書門下三品に昇って宰相となり、翌年には侍中に累進した。その間、高宗の行幸の際は皇太子を擁して長安の留守を預かるなど当代きっての実力者の地位を獲得し、影響力を強める。
高宗が崩御した後も中宗に仕え、中宗の即位後に中書令となり、権勢を保つ。これに対し、次第に裴炎を煙たく思うようになった中宗は、韋后の外戚である韋氏を後ろ盾に強権政治を試みるようになり、皇后の実父・韋玄貞を侍中に任じようと画策するなどし、裴炎派と激しく衝突した。
裴炎は、武后と結託して中宗の廃位を強硬に企て、代わって李旦(睿宗)を皇帝に立てた。この54日間のクーデターの功として、永清県男に封ぜられている。以後、これに端を発して、武后派の武氏と中宗派の韋氏の政争が長期にわたって続くこととなる。