高木村 (愛知県)
From Wikipedia, the free encyclopedia
『尾張志』によると、応安年間から高木の名はあったと思われる。また、斎藤村と高木村は古くから繋がりがあり、高木も前刀族の本拠であったと推察できる。高木字桜木に白山跡があり、別名、県ノ腰(腰は越の義ではないか)といわれる祠があった。この社が県連を祭った神社とも考えられる。
前利神社の東北約30mの現在、中央道沿いの畑の中に八王子跡があるが、ここには副宮(地元の人は福の宮と言っているが、その文字は明らかでない。)と称する社があった。
熊野社の創建は明らかでないが、棟札によると文明年間以前に建てられたことが分かる。言い伝えによると、幸宮、福宮と称し、今、小字を福塚というのはここに起因しているというが、その字名の起源は明らかでない。また、北の方平塚のあたりに大きな塚があって、昔はここに馬を捨てたという。
江戸時代の高木村で特筆することは、寛文年間のキリシタン取り締まりの折、多くの人が捕らえられて名古屋へ送られ厳しい詮議の上、数十人の処刑者を出した歴史を持つということである。村内にある恵心庵の敷地からは、首に刀傷のある遺骨も掘り出されたことがあるといわれる。こすいて、多くの働き手を処刑され、以後村の機能を失うほどの状態になり、発達が遅れたという。幕末頃になってようやく、畑作農業を主体に復旧した。