木津用水
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歴史
江戸時代に築かれた「御囲堤」によって木曽川左岸の小河川が締め切られ、さらに新田開発需要が高まると農業用水が不足するようになる[3]。入鹿池の建設と入鹿用水の整備によって灌漑用水が確保され、広大な荒野が水田として開発されると、開発は西側の地域へと移っていった[3]。
入鹿池の整備に関わった入鹿六人衆の3人とその子らの計5人によって、丹羽郡木津村(現在の犬山市木津)から小口村までの約5キロメートルを開削し、木曽川から取水して合瀬川へと繋ぐ用水路が計画される[3]。この「木津用水」の工事は1648年(慶安元年)に着工され、1650年(慶安3年)に竣工した[3][4]。また、さらに高まる新田開発需要に応じるため1662年(寛文2年)から1664年(寛文4年)にかけて、小口村荒井から分岐して八田川へと合流する約14キロメートルの新木津用水が整備される[3]。新木津用水の整備に伴って、旧来の木津用水は「古木津用水」とも呼ばれるようになる(レトロニム)。
合瀬川は古くは庄内川へと合流していたため木津用水の整備によって庄内川の用水の水量も確保され、また明治時代に至るまで木曽川と庄内川を結ぶ水路として利用された[3][1]。しかし庄内川は「御囲禍堤」の影響もあり右岸で洪水が頻発しており、1787年(天明7年)に洪水対策として新川が開削されると、合瀬川は大山川などとともに新川の支流となった[5]。
木津用水は、1962年(昭和37年)に同様に木曽川から取水していた宮田用水や羽島用水とともに、取水口を犬山頭首工に合口して濃尾用水へと再編された[1]。






