高橋隆
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| 高橋隆 | |
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| 基本情報 | |
| 国籍 |
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| 出身地 | 秋田県大仙市 (旧:大曲市) |
| 生年月日 | 1941年4月5日(84歳) |
| 騎手情報 | |
| 所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
| 所属厩舎 | 京都→栗東・大久保石松(1963 - 引退) |
| 初免許年 | 1963年3月1日 |
| 免許区分 | 平地 |
| 騎手引退日 | 1989年2月28日 |
| 重賞勝利 | 5勝 |
| 通算勝利 | 2874戦268勝 |
| 調教師情報 | |
| 初免許年 | 1990年(1991年開業) |
| 調教師引退日 | 2012年2月29日 |
| 重賞勝利 | 7勝(中央5勝・地方2勝) |
| 通算勝利 | 3681戦207勝 |
| 経歴 | |
| 所属 | 栗東T.C. |
高橋 隆(たかはし たかし、1941年4月5日 - )は、秋田県大仙市出身の元騎手・元調教師。
長男の高橋亮も元騎手で現調教師。
稲作と養鶏を営む兼業農家を生業とする家に6人兄姉の次男として出生したが、長女・四女がそれぞれ婿養子を貰い家業を相続。その背景から長男である謙治は家業を継がず、中学卒業後に家を離れ大阪・春木で騎手となる[1]。
運動を得意としていた隆はバスケットボール・野球などでその機敏さを発揮し、謙治の影響を受けて騎手を志すようになっていたが、運動神経の良さを見込まれ角館高校バスケット部より誘われた経緯から同校を受験し合格。「もし背が伸びてしまい騎手を断念するようなことがあればバスケットのコーチ・監督をやれたらいい」と当時考えていたが、角館高校への入学を間近に控えた矢先に両親に何も告げず実家を出て京都へと向かう。謙治が関西にて隆を騎手にすべく奔走し、謙治は自身の師匠を通じ京都競馬場にて調教師をしていた大久保石松へと話を通し、その道を拓いていたためであった。このあと謙治は勝手に隆の進路を曲げたことを咎められ、両親から手酷い叱責を受けたという。
1957年春に大久保の下へ弟子入りするも、体重が重すぎたことから長期養成所に入ることができず、短期講習生として騎手を目指すこととなる。下乗りを経て、1963年に大久保厩舎からデビュー。
1年目の1963年は3月2日の中京第2競走4歳未勝利・ボストガローで初騎乗初勝利[2]を果たし、1962年の中神輝一郎・若林繁樹に続く2年連続での達成となった[3]。4月14日には京都第9競走5歳以上オープンを尾形藤吉厩舎のコレヒサ[4]で勝利するなど初の1日2勝、同20日の京都では2週連続の1日2勝を挙げ、騎乗機会4連勝を記録[5]。6月8日・9日の阪神で初の2日連続勝利[6]を記録し、宝塚記念・アイボリー(10頭中6着)で重賞初騎乗[7]も果たす。初年度から2桁勝利で20勝台の24勝[8]をマークし、同年から制定された関西の新人賞に当たる中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞[9]。2桁勝利は1971年まで9年連続で記録するが、20勝台は初年度が唯一で自己最多となった[8]。
その後は繋駕速歩競走に重きを置く大久保厩舎の事情から繋駕免許を持たない隆の成績は初年度をピークに緩やかに下降し、繋駕競走廃止後も石松の下に入門した猿橋重利が目覚しい活躍を遂げたことから、隆はその存在感をさらに薄めることとなる。
2年目の1964年にはサクシゲオーでアラブ大賞典(春)を制して重賞初勝利[10]を挙げ、タマツバキ記念(春)では3着に入った[11]。
3年目の1965年にはウキハシでアラブ大賞典(春)を連覇し[10]、第1回新潟記念[12]ではパシカリームでウメノチカラの3着に入った[13] [14]。
パシカリームでは1966年に小倉記念で桜花賞馬ワカクモの2着に入り、金鯱賞を制した[13]。1966年暮れの阪神大賞典では菊花賞で3着に入った牝馬ハードイツトに騎乗し、リュウファーロスの3着に入った[15]。
1968年にはサクヒカリでタマツバキ記念(秋)・読売カップ(秋)2着[16]、1970年には大久保末吉厩舎のメジロダケで小倉大賞典3着[17]に入った。
1971年にはタイヨウコトブキでオークス馬カネヒムロを抑えてビクトリアカップを勝利し[18]自身唯一のGI級レース制覇[19]、続く阪神牝馬特別も制して重賞を連勝し、1972年のサンケイ大阪杯でも3着に入った[20]。
1973年にはレディコトブキで4歳牝馬特別(東)を15番人気4着[21]、センコウトラックで京都4歳特別2着[22]、グッドキャッツアイでは11番人気の北海道3歳ステークスでカーネルシンボリの5着、函館3歳ステークスではサクライワイの3着に入った[23]。
1973年には12勝[8]、1976年には10勝[8]、1981年には14勝[8]を挙げ、1982年にはエリモローラでシンザン記念をシルクテンザンオーの3着、きさらぎ賞をワカテンザンの3着とし、毎日杯を勝利[24]。
1984年の11勝が最後の2桁勝利[8]となり、1988年の金鯱賞をパッシングパワーでプレジデントシチー・ユウミロク・シンウインドを抑えて逃げ切ったのが[25]最後の重賞勝利[26]となった。
1988年10月30日の京都第8競走4歳以上900万下・ワイドハスラーで最後の勝利[27]を挙げ、同馬に騎乗した愛知杯(16頭中11着)が最後の重賞騎乗[27]となり、1989年2月26日の阪神第4競走4歳新馬・マルミフブキ(14頭中14着)を最後に現役を引退[28]。
現役を退き、時間を有効に使えるようになった隆は1年後の1990年調教師試験に合格、1991年3月今春に引退したばかりの義父石松の馬房を継ぐ形で開業、すでに技術調教師時代から石松厩舎の業務を代行してきた隆は仕事環境にさほどの変化はなくスタートを切れたという[29]。3月2日に初出走も同年9月14日の初勝利まで半年を要するなど出だしに苦労し、「あれがなければ1年間未勝利で終わるんではないか」と隆を懸念させたが、翌1992年から2005年に駆け概ね勝利数を2桁に乗せ、この間重賞勝ちも記録するなど騎手・調教師双方にて成果を収めている。2006年以降は重賞勝利馬などの活躍馬を出すことはなく、年間1勝に終わる年もあるなど苦戦が続いたが、定年となる2012年まで調教師を続け同年2月29日を以って定年勇退、最終年度の同厩舎の勝ち鞍2勝はいずれも息子である亮の騎乗によるものであった。
騎手成績
| 1着 | 2着 | 3着 | 騎乗数 | 勝率 | 連対率 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 平地 | 268 | 300 | 300 | 2869 | .093 | .198 |
| 障害 | 0 | 1 | 0 | 5 | .000 | .200 |
| 計 | 268 | 301 | 300 | 2874 | .093 | .198 |
| 日付 | 競走名 | 競馬場 | 馬名 | 頭数 | 人気 | 着順 | |
|---|---|---|---|---|---|---|---|
| 初騎乗・初勝利 | 1963年3月2日 | アラブ4歳未勝利 | 中京 | ボストガロー | 10頭 | 3 | 1着 |
| 重賞・GI級初騎乗 | 1963年6月30日 | 宝塚記念 | 阪神 | アイボリー | 10頭 | 9 | 6着 |
| 重賞初勝利 | 1964年3月8日 | アラブ大賞典 | 中京 | サクシゲオー | 6頭 | 5 | 1着 |
| GI級初勝利 | 1971年11月21日 | ビクトリアカップ | 京都 | タイヨウコトブキ | 19頭 | 5 | 1着 |
主な騎乗馬
- サクシゲオー(1964年アラブ大賞典)
- パシカリーム(1966年金鯱賞)
- タイヨウコトブキ(1971年ビクトリアカップ、阪神牝馬特別)
- エリモローラ(1982年毎日杯)
- パッシングパワー(1988年金鯱賞)