高清水城
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別名
高清水要害
城郭構造
平城
築城主
大崎持家?、大崎直堅?
築城年
延文元年(1356年)?、天文年間(1532年-1554年)?
(宮城県) | |
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2025年10月。校舎解体後の整備途中。 | |
| 別名 | 高清水要害 |
| 城郭構造 | 平城 |
| 築城主 | 大崎持家?、大崎直堅? |
| 築城年 | 延文元年(1356年)?、天文年間(1532年-1554年)? |
| 主な城主 | 大崎氏・亘理氏・石母田氏 |
| 廃城年 | 1873年(明治6年)頃 |
| 遺構 | 曲輪・堀・土塁 |
| 指定文化財 | 未指定 |
| 位置 | 北緯38度39分20.0秒 東経141度00分54.7秒 / 北緯38.655556度 東経141.015194度座標: 北緯38度39分20.0秒 東経141度00分54.7秒 / 北緯38.655556度 東経141.015194度 |
| 地図 | |
高清水城(たかしみずじょう)は、宮城県栗原市字東館(旧・高清水町)にあった日本の城。戦国大名・大崎氏の居城だった。奥羽山脈から東へ延びる築館丘陵の末端部に位置し、沖積平野に面した標高20メートル程の緩やかで平坦な微高地に造られていた[1]。
延文元年(1356年)に大崎(高泉)持家が築城したとする伝えと、天文年間(1532年-1554年)に大崎直堅が築いたとする伝えがあるという[2]。城跡の発掘調査では、天文の頃に城があったと考えられたが、延文の築城は真偽不明とされた(後述)[3]。
豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏が改易されると、木村吉清が新領主となる。伊達政宗の煽動により葛西大崎一揆が発生すると、高清水城は一揆勢に攻略されたが、秀吉より一揆鎮圧を命じられた政宗によって奪還された。
一揆鎮圧後、政宗が転封されて岩出山城に移ると、高清水城も伊達氏の所領となり、慶長9年(1604年)10月、涌谷城主・亘理重宗に隠居領として与えられる。慶長11年(1606年)、政宗の庶子・宗根に重宗の末娘を嫁がせて婿養子とし、隠居領と併せて亘理氏の名跡を継がせることになった(高清水亘理家。のちに佐沼亘理家)。
宝暦7年(1757年)に第5代・亘理倫篤が佐沼城に移されると、高清水城には石母田興頼が宮崎城から入り、石母田氏の居城として幕末に至った。
