高漢筠

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高 漢筠(こう かんいん、873年 - 938年)は、末から五代十国時代にかけての官僚は時英[1]本貫斉州歴城県

若くして書物を好み、唐末に長白山の講習に訪れた。宣武軍節度使の朱全忠が覇権を掌握すると、漢筠は筆を投げうって面会し、その軍門に入った。ほどなく衛州の牙将として出向した。天祐12年(915年)、晋王李存勗魏州に入ると、漢筠は衛州刺史に利害を説いて、李存勗に降らせた。功績により、洺州都校に転じた。のちに鎮州が北京となると、漢筠は皇城使となり、検校兵部尚書・左驍衛将軍同正を加えられた[1]

後唐天成元年(926年)、明宗が即位すると、漢筠は成徳軍節度副使に任じられた。天成2年(927年)、荊南に出兵すると、漢筠は知襄州軍州事をつとめた。長興年間、曹州刺史・亳州刺史を歴任した。任期を満了して、検校司徒を加えられ、左金吾衛大将軍を代行した。清泰3年(936年)、河東節度使の石敬瑭が起兵し、後唐の末帝が建雄軍節度使の張敬達を派遣して太原府を包囲させると、漢筠は建雄軍の宣撫を委ねられた。張敬達が殺害されると、建雄軍節度副使の田承肇が兵を率いて漢筠に節度使として立つよう迫った。漢筠は老耄を口実にこれを拒絶した。田承肇は漢筠を翻意させられないと悟ると、兵を退いた[1]

後晋天福元年(同年)、高祖石敬瑭が洛陽に入ると、漢筠は入朝した[1]。天福2年(937年)、左驍衛大将軍・内客省使に転じた[2]。天福3年(938年)1月、病が嵩じて、開封府の私邸で死去した。享年は66[1]

家族

  • 曾祖父:高詣[1]
  • 長男:高貞文(北宋に仕え、開封少尹となった)[3]

脚注

伝記資料

参考文献

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