高田繁頼

戦国時代の武将 From Wikipedia, the free encyclopedia

高田 繁頼(たかだ しげより)は、戦国時代武将。高田城(現・群馬県富岡市妙義町下高田)城主。

生誕 大永6年(1526年
別名 小次郎、大和守
概要 凡例高田 繁頼, 生誕 ...
 
高田 繁頼
生誕 大永6年(1526年
死没 元亀4年4月5日1573年5月6日
別名 小次郎、大和守
主君 上杉憲政北条氏康上杉謙信武田信玄
氏族 高田氏
父母 父:高田憲頼(遠春?)
兄弟 右衛門佐、繁頼
安中重繁の娘
信頼
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生涯

高田氏は上野国甘楽郡における国衆。甘楽郡菅野荘一帯の高田川流域を領域支配していた他、西牧川流域の西牧(現・下仁田町西野牧)も支配していた可能性も示唆されている[1]

系譜に関して、黒田基樹丸島和洋は繁頼を山内上杉氏の家臣・高田憲頼の次男としている一方[2][3]久保田順一は『寛政重修諸家譜』における「憲頼」を繁頼と同一人物とし、繁頼の父は系図上の「遠春」であるとしている[1]天文16年(1547年)8月の信濃小田井原の戦いで父・憲頼(もしくは遠春)と兄・右衛門佐が戦死し、家督を継ぐ[2]

天文21年(1552年)に主君・上杉憲政後北条氏に関東を追われると、繁頼は後北条氏に従ったとみられる。永禄3年(1560年)に上杉憲政を擁した長尾景虎(上杉謙信)の関東侵攻が起きると、謙信に従い、箕輪長野氏の指揮下に入る。『関東幕注文』によると、この時点では「小次郎」を称している[2]。翌4年(1561年)11月に武田信玄の西上野侵攻を受けると降参し、武田氏の従属下に入る。武田氏配下においては、同じ甘楽郡の国衆で国峯城主・小幡信実の同心とされたと考えられている[4]。同10年(1567年)8月7日付で提出された『下之郷起請文』では「高田大和守繁頼」の名乗りが確認され、取次の原昌胤に単独で提出している[2]。同12年(1569年)6月に武田氏から離反した小幡信尚を追討し、その功を信玄から評されている。同年10月の武田軍による小田原城攻めでは先鋒を務めた。

元亀3年(1572年)12月の遠江三方ヶ原の戦いに参陣し、負傷した。その傷が元で翌年に死去。享年48。家督は嫡男の信頼が継いだ[2]

脚注

参考文献

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