高田氏
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歴史
出自
高田氏の系図は「尊卑分脈」「寛永諸家系図伝」「寛政重修諸家譜」などに記載されている。高田氏は、以仁王を奉じて宇治川で討たれた源頼政の孫・源光円(光圓)の子・源盛員(盛圓)を祖としている。(父の源光円を祖としている文献もある。)
鎌倉時代
同族の美濃源氏土岐氏、山県氏らと同様に、源光円(文献によっては源光国または源光國)・源盛員親子は美濃国に居住していた。(美濃国内に高田の地名が複数あり、源光円が既に高田氏を称していたという説がある。)
源盛員は、祖父の源頼兼・伯父の源頼茂親子が共に在京御家人だったため、鎌倉幕府を頼って上野国甘楽郡菅野荘高田郷に移住して、高田盛員と称した。妙義山の東を流れる高田川の南に高田城(群馬県富岡市妙義町下高田本村字城ノ腰)を築いた。
建久元年(1190年)、源頼朝が上洛したときの随兵のなかに、関東御家人になった高田太郎がいた[1]。(年代的に高田太郎盛員のことではなく、父の源光円のことだったという説がある。)
建暦3年(1213年)、和田義盛が北条義時排斥のために挙兵した(和田合戦)。高田氏一族は和田氏に味方したが、和田方の敗北で勢力を後退させた。その後も所領は保ったが、仁治2年(1241年)に境界をめぐって長秀連と争って敗北して、所領の一部を奪われている。
南北朝時代
鎌倉時代末期から南北朝時代の動乱期に、高田又次郎がいた[2]。高田又次郎義遠は、新田義貞に属して鎌倉の戦いで活躍して、新田左中将義貞十六騎の一人に数えられている。
建武2年(1335年)、新田義貞を大将とする足利尊氏討伐軍が発せられると、高田薩摩守義遠も箱根・竹ノ下の戦いに従軍した。以後、高田氏は南朝方として行動した。
室町時代
鎌倉公方は室町幕府と対立するようになり、関東に戦乱が繰り返される要因となった。高田氏ら上野国の武士はそれぞれ一揆を結び、関東管領で上野守護の上杉氏に属して関東の戦乱に参加した。永享12年(1440年)の結城合戦では、高田越前守[注釈 1]が活躍した。
戦国時代
享禄4年(1531年)、上杉憲寛を逐ってわずか八歳の上杉憲政が山内上杉氏の家督となった。上杉憲寛は古河公方から養子に入った人物で、上杉憲政が家督となった背景には家臣団の対立があった。上杉憲寛を擁する重臣箕輪長野氏・高田氏ら、対して上杉憲政を擁する重臣白井長尾氏・小幡氏らの派閥争いであった。敗北した重臣箕輪長野氏・高田氏ら諸氏は許された。
天文2年(1533年)、北条氏綱は鶴岡八幡宮再建のため、関東諸将に奉加を求めた。北条氏綱は諸将の動向を探るのが大きな目的であり、長尾憲景、長野業正らは応じていない。一方、高田伊豆守遠春は奉加に応じた[3]。
天文16年(1547年)、武田晴信(後の武田信玄)が、信濃国佐久郡の志賀城主笠原新三郎清繁を攻撃した(小田井原の戦い)。笠原清繁・笠原清仲親子と親戚関係にある高田遠春・高田憲頼親子が、援軍として城に立て籠った。しかし、志賀城は武田軍の猛攻の前に陥落して、城兵三百余人が討ち取られ、高田親子も奮戦の末に討たれた。高田遠春の娘婿養子で笠原清繁または安中重繁の次男、高田繁頼が高田氏の家督となった[4]。(義兄の高田憲頼の養子に高田繁頼がなったという説。または、高田遠春ではなく高田憲頼の娘婿養子に高田繁頼がなったという説。あるいは、高田憲頼と高田繁頼は同一人物で、上杉憲政の一字を拝領して、高田憲頼と称していたが、武田氏に属して改名する必要があり、実父または義父の一字を拝領して、高田繁頼と称したという説などもある。)
天文21年(1552年)、上杉憲政は長尾景虎(後の上杉謙信)を頼って越後国に逃れた。永禄3年(1560年)の上杉憲政を擁した長尾景虎の関東出兵に、高田繁頼(箕輪衆 高田小次郎 にほひ中黒)は従軍した[5]。対して北条氏康は武田信玄と同盟して対抗、上野国を舞台に三者の抗争が展開された。高田繁頼は武田信玄の西上野侵攻に抵抗したが、永禄4年(1561年)に敗北すると、高田氏は武田氏に属した。
永禄9年(1566年)に武田信玄配下の諸将が生島足島神社に捧げた起請文の中に、高田大和守繁頼の物がある。高田繁頼の子は武田信玄の一字を拝領して、高田信頼と称した。元亀3年(1572年)の武田信玄の西上作戦に、高田繁頼・高田信頼親子は従軍して、三方ヶ原の戦いで活躍した。しかし、武田信玄は天正元年(1573年)に病没した。同年に高田繁頼も、三方ヶ原の戦いで傷を負っていたことが原因で没した。高田信頼が高田氏の家督となった。
安土桃山時代
天正10年(1582年)、織田信長の甲州征伐によって武田氏が滅亡すると、高田氏は後北条氏に属した。高田信頼の子は北条氏直の一字を拝領して、高田直政と称した。
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐によって後北条氏も滅亡した。後北条氏に味方した高田直政は、高田城を離れて信濃国小県郡塩田村に移住した。鎌倉時代以降、高田郷を支配した在地領主高田氏の歴史は幕を閉じた。
その後、徳川家康に召し出された高田直政は、慶長5年(1600年)の上田合戦と大坂の陣に従軍。高田氏は江戸幕府の旗本として細々と続いた。
系図
竹本氏
延文5年(1360年)、南朝方を見限り北朝方に味方した新田氏一族および譜第家臣のうち、新田氏の支流で里見氏支流の大島兵庫頭義高が、三河守護に就任する。高田薩摩守義遠(新田左中将義貞十六騎の一人)の次男・高田又次郎政季が、大島義高を頼って守護所近くの三河国宝飯郡御津郷廣石村竹本に移住して、竹本政季[注釈 5]と称した(竹本氏の祖)。領地に竹本城(愛知県豊川市御津町広石字竹本)を築いた[6]。
竹本政季の後裔で家督となった竹本四郎左衛門成久は、今川氏の家臣で東三河の盟主・牧野保成(牛久保城主)に属していた。しかし、永禄3年(1560年)に桶狭間の戦いで今川義元が討たれる。
永禄6年(1563年)、今川氏から独立して三河統一を目指す、西三河の盟主・松平家康(後の徳川家康)の牛久保城攻めで牧野保成が討たれると、竹本氏は徳川氏に属した。
天正18年(1590年)、徳川家康の関東転封の際、竹本氏も関東に移住[7]。江戸幕府の旗本になったが、それ以外の一族は帰農した。
元禄9年(1696年)8月23日、竹本次左衛門長直(後の竹本土佐守長鮮)が、三丸(徳川綱吉の母・桂昌院)方用人となる[8]。
享保2年(1717年)5月11日、徳川吉宗は将軍による鷹狩を復活させた。憩息所となった木母寺を、新番頭の竹本土佐守長鮮などが警護した[9]。