高野信
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福島県いわき市出身[1][2]。1929年(昭和4年)東京帝国大学を卒業後、朝日新聞社に入社する[2]。
東京本社編集局長、西部本社代表、国策パルプ代表などを歴任し、1967年1月から1973年5月までに九州朝日放送社長を務め、1973年5月から1974年11月までに同社会長を務めた[2]。
1974年(昭和49年)11月、NET社長に転じ、同じ朝日出身の副社長、中川英造と相談し三浦甲子二を編成、制作担当役員に抜擢した[3][2]。三浦は持ち前の行動力を生かし、77年3月、モスクワ五輪の独占放映権獲得に成功する[3]。しかし、ソ連のアフガニスタン侵攻でアメリカに追随した日本は、モスクワ五輪の不参加を決定した[4][1]。日本チームの参加しない五輪など誰も見ないため、五輪放映は大幅に縮小され[5]、さらに約20億円もの損失を被った[6]。