鱒留
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地理

竹野川の支流である鱒留川の上流域に位置する[3]。西南に延びる峰山盆地の隅にあり、幅の狭い平地に耕地整理された田畑が広がる[4]。
地区を走る国道312号の西端は久美浜町との境である比治山峠(比治山トンネル)に達し、その左手の磯砂山の方角に田畑と技村の大路(呂)・大成地区がある。
天橋立に面する丹後一宮・籠神社は伊勢神宮外宮の元宮とされるが、その籠神社の元とされる元祖「元伊勢」とされる地域のひとつ。
自然
地区
主な集落単位として、「鱒留」のほか、「大路」「大成」の枝村がある。
鱒留(ますどめ)
磯砂山系と久次山系の間を通る国道312号(通称:久美浜街道)沿いに集落が形成されている[3]。東端は東経135度2分4秒、西端は東経135度0分20秒、南端は北緯35度34分24秒、北端は北緯35度34分45秒[4]。東西2.6キロメートル、南北0.65キロメートル[6]。全徳寺や藤社神社、わらび堂など寺社がある[7]。
大路(おおろ)
国道312号から南への1本道を2キロメートル程の地点に展開する集落[4]。東端は東経135度1分40秒、西端は東経135度0分26秒、南端は北緯35度33分17秒、北端は北緯35度34分24秒[4]。東西1.8キロメートル、南北2.1キロメートル[6]。
近代、近郊に鉄道が開通する以前は丹後地域と但馬地域を結ぶ主要街道が村落を通り、その賑いは都大路のごとくであったことから「大路」と呼ばれるようになった[8]。乙女神社、七夕の家など、この地区特有の羽衣伝説が残る[9][10][11]。
大成(おおなる)
大路集落から2キロメートルほど磯砂山系の山裾を進んだ先にある集落で、峠を越えて兵庫県豊岡市但東町中藤と隣接する[4]。東端は東経135度1分38秒、西端は東経135度1分16秒、南端は北緯35度32分13秒、北端は北緯35度33分17秒[4]。東西0.55キロメートル、南北2キロメートル[6]。
平家の落人伝承が残る[10]。古くは木地師の里であり、滋賀県愛知郡の筒井八幡から勧請した木地師の氏神を勧請した八幡神社があり[5]、ムクロジの巨木がある[10]。
磯砂山登山口があり、1010段の階段状の遊歩道がある[12]。この段数は、峰山町のマスコットキャラクターである羽衣天女の愛称「てんてん」に因む[13]。山中に清水ヶ原があり、1968年(昭和43年)に日蓮宗の僧侶が夢でお告げを受けて国難を祈祷する法塔を建立した[5]。
兵庫県豊岡市但東地区(旧・出石郡但東町)との間に沓峠があり、京都府道鱒留但東線が通る。昭和期には自動車が通れるようにこの拡幅工事が検討された時期もあったが、残り数百メートルを残して実現していない[5]。
高度経済成長期に大きく人口が減少し、第二次世界大戦以前には20戸あった戸数は、1970年(昭和45年)までに8戸まで減少した[6]。鱒留区全体では戦前と戦後1970年代までの人口にはほとんど変動がない[6]。
小字
角川日本地名大辞典に掲載されている小字は以下の通りである[14]。
- 鱒留
- 石ケ坪
- 井根ノ下
- 石本
- 蛭子堂
- 大光田
- 追掛
- 大下
- 大木ノ谷
- 大路
- 奥大路
- 大成
- 鹿島
- 上谷
- 狩生谷
- 久保田
- 木谷
- 三本松
- 白石
- 四反田
- 下谷
- 待従谷
- 大道の下
- 大膳名
- 大セン名
- 丁田
- 塚沖
- 寺谷
- 中河原
- 夏焼
- 広畑
- 比沙門
- 比治山
- 藤木
- 歩
- 明光
- ヤセガ谷
- 和久河原
歴史
中世
『丹後国風土記』逸文には羽衣伝説が記されているが、伝承に登場する「比治の里」は久次や鱒留付近とされ、磯砂山には天女が下りたとされる女池がある[15]。
地名の成立は中世前期以前とみられ、「ますます富栄える」ことを祈願した吉祥句に由来して益富(ますとみ)と呼ばれた[16]。文献における初出は貞治4年(1365年)の『時宗過去帳』における記述で、益留の阿弥陀仏を作ったことが記録されている[16]。中世、丹後国成久末成益留保として整備され、明徳3年(1392年)に石清水八幡宮に寄進されて石清水八幡宮領の益富保の地とされた[3]。室町時代の記録では、二箇村とともに石清水八幡宮領として記録されている[16]。
近世
慶長年間(1596年-1615年)に編纂された慶長検地郷村帳で、益富村は472.46石だった[3]。
「鱒留」という表記の初出は、延宝9年(1681年)の『丹後国与謝郡等郷村高帳面』が確認されており、天和年間(1681年-1684年)の村高帳などその後は鱒留の表記が用いられるようになった[16]。『丹哥府志』には「鱒留一に益富に作る」とある[3]。藤社神社の使いの鱒が鱒留川を遡り、この地に留まることが地名の由来とする伝承がある[3]。かつては実際に鱒が遡上していた[3]。また、のちに天皇家に娘を嫁がせる川上摩須郎女が豊受大神に仕えてこの地に住んでいたという説もある。
江戸時代の当初は宮津藩領だったが、寛文6年(1666年)に幕府領となり、寛文9年(1669年)に宮津藩領となり、延宝8年(1680年)に幕府領となり、延宝9年(1681年)に宮津藩領となり、享保2年(1717年)に幕府領となった[3]。久美浜代官所がこの地を所管していた。鱒留村の枝村として大路村(大呂村、おおろむら)と大成村(おおなるむら)があった[3]。
近代

1878年(明治11年)には大路分教場が開設された[18]。1901年(明治34年)には大路分教場が成路分教場に改称し、現在地に移転した[18]。
現代
1959年(昭和34年)には峰山町立五箇小学校成路分校の校舎が新築された[18]。
施設
名所・旧跡

- 藤社神社 - 小字大光田。旧村社。祭神は保食之神。延喜式神名帳の比沼麻奈為神社の論社[25]。養蚕の神として信仰される[25]。狛犬の原型とされる古風な狛犬があり、南北朝時代の作とみられる[26]。
- 乙女神社 - 小字大路。無格社。祭神は豊宇迦能売命。
- 八幡神社 - 創建年は不詳だが、天保12年(1842年)の『丹哥府志』に記載されている[27]。胸高幹回4.96m、樹高約31メートル、樹齢約400年のムクロジは全国有数の大きさとされる[27]。「八幡神社のムクロジ」として京丹後市天然記念物[27]。
- 全徳寺 - 曹洞宗の寺院[3]。京丹後市指定文化財である平安時代作の阿弥陀仏がある[28]。
- わらび堂 - 比治山峠の中腹にある地蔵堂で、八百屋お七の恋人・吉左がお七の霊を弔うために建てたと言われる。近世、久美浜代官所が田を寄進し、その収穫で毎年地蔵まつりを執り行った。地域の子どもが泊まり込みで参拝する風習があったことから「わらべ(童)堂」とも呼ばれる。大正初期には隣に茶店ができるほど参拝客があった[29]。
- 鱒留城
- 陣ノ森 - 久美浜街道に近い南側の水田にある塚[3]。天正10年(1582年)5月、吉原城落城時の大谷刑部左衛門成家の討死の地とされる[3]。
- 金谷1号墓
- 鶏塚 - 石穴とも呼ばれる。1887年(明治20年)頃に道路新設工事で発見された古墳で、石棺が発見された。元旦の早朝にここで鶏の声を聞くと富豪になれるという迷信がある[30]。
- てんてん広場 - 磯砂山の山頂にある広場。南東に天橋立、北西に久美浜の小天橋がみえるなど景観に優れる。一等三角点があり、羽衣天女のモニュメントなどが設置されている[31]。
- 全徳寺
