鳥居忠意
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| 時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
|---|---|
| 生誕 |
享保5年12月28日(1721年1月25日)[1] または享保2年(1717年)[2] |
| 死没 | 寛政6年7月18日(1794年8月13日)[2] |
| 改名 | 忠胤、忠孝、忠意 |
| 別名 | 熊千代(幼名) |
| 戒名 | 寿徳院殿義岳秀天大居士 |
| 墓所 | 東京都文京区本駒込の江岸寺→常楽寺に改葬 |
| 官位 | 従五位下、従四位下、伊賀守、侍従 |
| 幕府 | 江戸幕府若年寄・奏者番・寺社奉行 |
| 主君 | 徳川吉宗→家重→家治→家斉 |
| 藩 | 下野壬生藩主 |
| 氏族 | 鳥居氏 |
| 父母 | 父:鳥居忠瞭、母:小西氏 |
| 兄弟 | 忠意、大久保忠翰、忠亮 |
| 妻 |
正室:亀井茲親の養女(亀井茲長の娘) 側室:中山氏、麻衛氏、伊東氏、川久保氏など |
| 子 |
13男7女:忠求、坪内定系、忠計、忠見、竹中元恭(五男)、忠温(七男)、戸川安昶、忠寄、忠良(十一男)、娘(高木正弼正室)、娘(花房職雍正室)、娘(花房正域養女、花房正応正室)、虎子(織田秀綿正室のち土屋業直継室) 養子:忠貴、忠燾 |
再度の出仕
享保5年12月28日(1721年1月25日)(または享保2年(1717年))、下野壬生藩第2代藩主・鳥居忠瞭の長男として生まれた。
享保18年(1733年)7月28日に江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗に拝謁し、享保19年(1734年)12月18日に叙任された。享保20年(1735年)に父が死去したため家督を継いだ。
見目がよかったため将軍・徳川吉宗に抜擢され、日光東照宮への将軍の名代としての代参役を勤めた。その際に将軍家の葵紋入りの羽織を与えられており、この後も日光代参役を何度も勤めた。延享4年(1747年)5月15日に奏者番となり、宝暦2年(1752年)4月23日には寺社奉行を兼務した。宝暦10年(1760年)3月22日には若年寄となったが、翌年に第9代将軍・徳川家重が死去すると全ての職を辞職した。
ところが、宝暦12年(1762年)5月24日に再び奏者番、寺社奉行、若年寄を兼務することになり、天明元年(1781年)閏5月11日には西の丸老中となり同年9月18日に従四位下を叙任された。天明6年(1786年)に徳川家斉が新将軍となると、本丸老中に任じられた。
寛政3年(1791年)10月11日に眼疾に倒れて、寛政5年(1793年)に高齢のため老中職を辞した。
晩年
この間、世子の長男の忠求が寛政元年(1789年)に早世。忠求の長男の忠貴を世継ぎと定めたが、寛政3年(1791年)に廃嫡した。次に世子とされた四男の忠見も寛政6年(1794年)5月12日に父に先立って死去した。