5代将軍徳川綱吉に実子がなかったため、幕府は後継将軍について長く議論してきた。宝永元年(1704年)12月5日、後継は綱吉の甥に当たる甲府藩主徳川綱豊(後の家宣)に正式内定した。その前日4日、江戸城より綱豊の下に「明日、登城すべし」との密かな使者が遣わされた。内々に「明日、公式発表することになった」という連絡である。つまりこの時点では、たとえ幕閣の多くの人間が関与していようが噂していようが、まだ公式になっていない幕府の機密事項、という扱いである。ところがその4日の夜、明英から綱豊の下に、綱豊が正式に後継者となれば住まうことになる江戸城西の丸の絵図面と大鯛2匹とが、あくまで私的に送られてきた。
当時の明英は若年寄として幕政に参画し、綱吉の覚えもめでたく、重要事項を容易に知り得る立場にあった。もしかしたら決定にすら何らかの関与があったかも知れない。また、江戸城西の丸の絵図面は、明日以降にそこに住まうことになるであろう綱豊家中への心遣いであったかも知れないし、「もう内々には決まっているのだから、絵図面だけ送るのも…」というつもりの鯛であったかも知れない。しかし綱豊はこれを“次期将軍たる自分へのおもねり”、そのための贈賄と受け止めた。また、気軽に江戸城内の図面を渡すのは重大な軍事機密漏洩である。さらにいまだ公ではない幕府の機密(将軍後継人事)を、たとえ私的な連絡や事務レベルの仕事であるにしても、職務上知りえたからといって使用して良いものではない。
ともあれ、この一件により家宣は明英を遠ざけることとし、遠ざけられた明英自身も、己の軽率さを嘆いたと伝わっている。
以降伝わるところでは、上記の事件を理由に、自らの栄進に望みがなくなった、と嘆くあまりに以降政道を誤るようになり、発狂し死去したなどといわれている。実弟の溝口政親も暗愚で酒乱などとして改易されており、祖父明成もまた暗愚や暴虐という伝承の残る人物、という家系ではある。