鶴城 (肥前国)
From Wikipedia, the free encyclopedia
構造

城は標高101.8メートルの丘陵の上に築かれていた。城跡の西側には幅50メートル、高さ30メートルほどの切り立った岩壁がある。東側には石垣が残っており、その間の南北に細長く伸びた山頂の一部に本丸があったとされる。大手門は西側にあったと考えられている[1]。
南西側には巨岩が露出している。下に流れる中島川は堀の役目を果たし、自然の要害となっていた[1]。
城主の長崎氏の居館は山麓に築かれ、隣接する地に長崎最初の教会であるトードス・オス・サントス教会が永禄10年(1567年)に創建された[注釈 5][1]。
城の東側にある幅50メートル・高さ30メートルの切り立った石壁は、江戸時代に中島川の架橋用に石材を切り出した場といわれている[1]。
歴史
築城時期・築城者は未詳だが、南北朝時代に、深堀氏への備えとして長崎氏によって築かれたと推測されている[1]。
『長崎群談』には、
長崎の地ハ、昔日深江浦といひて、漁者樵父の類ひのミ居住し、まことに鄙辺の遠境なりしに、文治の頃、頼朝の卿治世の折から、長崎小太郎何某といひしものを地頭に補し、差下されしより、小太郎居民を随へて領地し、夫より彼子孫連綿として不絶、今の春徳寺の上なる山に塁を構へて、幾春秋を送り迎へしよし、此故に深江を改めて、長崎とはいふ也[注釈 6]
とある[2]。
文治元年(1185年)に全国に守護・地頭が置かれた際に、地頭に就任して九州に下ってきた長崎小太郎は、それまで深江と呼ばれていた土地を長崎という地名に変えたと伝わる。それより長崎氏は代々この地を領地とし、山の上に城を構えた。この山の麓には、後にトードス・オス・サントス教会が、教会が破却された後は春徳寺が建立された[3]。
戦国時代に、城主が長崎純景(長崎甚左衛門)だったころ、天正元年(1573年)・同6年(1578年)・7年(1579年)・8年(1580年)に深堀純賢による侵攻を受けた。城下町は焼き払われ、城塞の下手の家々や教会も焼かれた。天正6年に、当時の長崎氏宗家だったミゲル[注釈 7]は豊臣秀吉の軍勢が到着すれば城の破壊を命じられると考え、その前に城に火を放って家族を率いて低地に下っていったという[注釈 8][1]。

