深堀純賢
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相模三浦氏、および和田氏の流れを汲む深堀氏は、和田仲光の代に上総伊南荘深堀に移り深堀氏を名乗った。仲光は承久3年(1221年)、承久の乱で幕府方として戦い、鎌倉幕府から恩賞地を拝領するが、仲光の子・深堀能仲は恩賞地の変更を幕府に要求し、建長7年(1255年)、肥前彼杵荘戸八浦の新補地頭となった。戸八浦は上総国から遠いため荘園は子の深堀行光に任せた。行光は子の深堀時光を代官として戸八浦(後に戸町浦)に派遣し、以後、時光の系統が戸八浦に在住して、地名も深堀と呼ばれるようになった。戦国時代のころには、深堀氏には長崎港を利用する貿易船から関税を徴収し、拒否されると船を襲い積荷を強奪するといった海賊のような側面もあった。