鷲尾善吉
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鷲尾善吉家
寛政4年(1792年)、尾張国海西郡塩田村字善吉屋敷(現・愛知県愛西市塩田町)の百姓の家に生まれた[1][2][3]。本名は嘉十郎である[1][2][4]。庄屋を務めていた鷲尾家の歴代当主は善吉を襲名しており、嘉十郎は6代目鷲尾善吉となった[1][2][4]。
道徳前新田の開発

文化14年(1817年)、善吉は尾張藩から1500両で愛知郡伊勢湾岸の土地を購入し、道徳前新田の開発に着手した[4]。北は現在の道徳北町、南は山崎川、東は知多街道、西は南陽通に至る範囲であり、125町歩もの広大な面積だった[3][4]。
文政4年(1821年)には道徳前新田が完成し、43人が入植した[2][4]。この際には新田の守護社として道徳稲荷社が創建されている[5]。しかし、風水害などで何度も堤防が決壊し、多額の借金を背負うこととなったため、築いた新田を尾張藩御小納戸に差し出すこととなった[2][4]。文政7年(1824年)には塩田村に帰郷したが、それ以後は一度も道徳を訪れることがなかったとされる[4]。
道徳前新田は東西約900メートル、南北約1000メートルあり[4]、後の名古屋市南区においては最も面積の広い新田だった[6]。道徳前新田において、表作では米を、裏作では麦を栽培し、綿花を栽培する畑もあった[4]。万延元年(1860年)には道徳前新田の堤防が一年間に3回も決壊するなどし、尾張藩主による堤防の大修築が行われている[3]。
善吉は1881年(明治14年)6月15日に死去した[2][4]。鷲尾家の菩提寺は津島市の鷲尾山本住寺であり[2]、かつて本住寺には善吉が寄進した天井画があった[7]。
死後
1925年(大正14年)には道徳前新田が名古屋桟橋倉庫などに払い下げられ、土地区画整理事業が行われて住宅地として分譲された[3]。1927年(昭和2年)には道徳公園がほぼ完成し[8]、後藤鍬五郎によって製作された道徳公園クジラ池噴水も設置された[9]。1955年(昭和30年)8月、道徳公園に鷲尾善吉翁頌徳碑が建立された[3]。