鷹司信子
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寛文3年(1663年)10月15日、当時上野国館林藩主であった徳川綱吉との縁組が発表され、翌4年 (1664年)9月に東福門院の女房が付き従って下向し、18日に神田御殿にて婚礼を挙げた[3] 。子宝には恵まれなかったが、綱吉とは一緒に能を鑑賞したり、祭礼見物をしたりと、行動を共にする機会が多く、これは側室のお伝の方が鶴姫、徳松を儲けても変わらなかった[3] 。
延宝8年(1680年)、綱吉の将軍就任により江戸城大奥に入る。貞享元年(1684年)、鶴姫の紀州藩主世子・徳川綱教への輿入れに際しては、新上西門院付きの元女房であった右衛門佐を鷹司家を通じて人選しており、鶴姫付きの上臈として随行させている[4][5]。後に右衛門佐は江戸城へ戻り、綱吉付きの筆頭上臈御年寄として大奥を取り仕切った。
元禄4年(1691年)、ドイツ人医師のエンゲルベルト・ケンペルと江戸城表御殿で綱吉と共に対面しており[6]、その折に信子を垣間見たケンペルは「小麦色の丸顔の美しい御方で、ヨーロッパ的な活々したぱっちりとした黒目が印象に残った。お姿から測れば背はかなり高く、御年は36歳(実際は41歳)位と思われた」と『日本誌』に記している。また同年には、姪孫にあたる鷹司輔信の娘・八重姫(徳川吉孚の正室)を引き取って養育した[3] 。
宝永6年(1709年)、綱吉が没すると、落飾して浄光院と号したが、綱吉の死から1か月も経たないうちに逝去した。享年59。戒名は浄光院殿円巌珠心大姉。墓所は東京都台東区の寛永寺。死因は夫綱吉同様に成人麻疹(はしか)と言われる。