甘露寺勝長の四男量長は、文久2年(1862年)に幼くして奈良興福寺に入れられて恵海院住職となったが、明治元年(1868年)に勅命により復飾し、翌2年に堂上格を与えられて一家を起こして鷺原を家号とした。明治8年に華族に列し、明治17年(1884年)7月7日の華族令施行で華族が五爵制になると、翌8日に量長は男爵に叙された。夫人は池田荘造三女鈴(後に離縁)。
負債を抱えて経済的に困窮したため、明治21年(1888)5月10日に爵位を返上した[注釈 1]。
量長の長男に明治13年生まれの量視があったが、明治39年に子供なく死去している。量長の長女に雪(明治11年6月27日生)がある。