揖斐川付替工事によって分断された呂久には、左岸と右岸を結ぶ呂久の渡しと呼ばれる渡船が運行されていたが、時代が進むにつれて交通の便の悪さが問題視されるようになった[1]。
特に自動車の普及、農機具の機械化・大型化が進行する過程で渡船は時代遅れの交通手段となり、通学にも不便と危険を強いていた[1]。
1947年(昭和22年)、呂久の人々は国および県に対して速やかな架橋を要望するが、、戦後の混乱期であったが故に長大橋の架設は困難とされ、実現しなかった[1]。
1951年(昭和26年)に至り、全国的にも殆ど例を見ない低水路部分のみの架橋がようやく認められ、1952年(昭和27年)度に「木曽川上流改修附帯工事」として建設省木曽川工事事務所直轄のもと、工費600万円で鉄筋コンクリート製の橋(全長120.36m、幅3.60m)が現在の鷺田橋の下流約100mの位置に架橋される[1]。
この橋は通常は通行可能だが出水時には水没するので「もぐり橋」と呼ばれた[1]。
このように、橋は不完全ではあったものの、開通時の地元の喜びは大きく、祭りさながらの盛大な祝賀式が2度開催された[1]。
開通以来、交通量は年々増加の一途をたどり、特に自動車の激増に伴い一般の通行が阻害されるようになった[1]。
通学児童の安全確保のために歩道を増設したり、父兄教師の引率で集団登下校したりといった対策も行なわれたが、事故は多発した[1]。
1968年(昭和43年)、県道72号(当時)関係郡市町村が一体となって永久橋の架設を国と県に要望する[1]。
運動は功を奏し、1975年(昭和50年)8月4日に現在の橋が開通した[1]。