鼓吹令

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鼓吹令(こすいれい、くすいれい)は、中国の3世紀から13世紀まで、西晋からからの時代に、鼓吹という音楽を扱った官職である。鼓吹令を長とする官庁は、南北朝時代以後、鼓吹署である。

日本の律令制にも取り入れられ、日本では伝統的に鼓吹を「くすい」と読む。鼓吹令にあたる日本の官職は鼓吹司の長官である鼓吹正である。

解説

鼓吹は軍隊の音楽として発達した。軍隊指揮に音を用いる方法は古くからあり、その場合、遠くまで伝わる大きな音を出すこと、楽器を携えて行軍できることが必要となる。鼓吹はそのような演奏、および演奏する人をいい、数人・十数人単位で部隊に配属された。乗馬で演奏することもあったようである。貴人の葬送でも鼓吹が用いられた。

そうではあっても、鼓吹のために独立した官庁が必要になるわけではない。代から、祭祀・儀式のための音楽は太楽令が管掌し、鼓吹令が任命されたのは西晋以後、宋までである。鼓吹令が置かれた時代には太楽令・鼓吹令の両人が楽人を率いて様々な儀式での演奏を行っていた。鼓吹令がない時代には、鼓吹をする楽人は太楽令に配属されていた。

中国では南北朝時代から、官庁に正式名称を与えてその長官の呼称と呼び分けるようになった。鼓吹令を長官とする官庁は、鼓吹署である。

歴史

西晋

はじめて鼓吹令を置いたのは西晋で、太楽令と並ぶ音楽の官職であった。『晋書』には皇帝の出御に際しての行軍序列が収録されており、軍の様々な部隊に鼓吹が配属されていたことが見てとれる。

西晋が北方からの侵入を受けて一度滅んだときに楽器と人を失い、太楽令とともに廃止になった[1]東晋は建国後しばらくして太楽令を復活させたが、鼓吹令については不明である[1]

南北朝時代

つづく南北朝時代にも鼓吹が盛んに用いられたが、鼓吹令の有無は王朝によって異なったようである。

南朝のには太楽令があって鼓吹令はなかった[2]

つづく南朝のにもなかった[3]

南朝のは、太楽令と鼓吹令を置いた[4]太常卿の下に属し、(鼓吹丞)がついた[4]

北朝の北魏太和15年(491年)に太楽を置いたが、鼓吹は置かなかった。

北朝の斉(北斉)は、太常の下に太楽令とともに鼓吹令を置いた[5]。鼓吹令は鼓吹だけでなく、百戯という様々な芸能をつかさどった[5]

には音楽の官として太楽令清商令と、鼓吹令があった[6]。いずれも太常寺に属し、鼓吹令の役所を鼓吹署といった[6]。鼓吹令の下には(鼓吹丞)が2人と、哄師が2人ついた[6]

では鼓吹署の長官で定員1人、官品は従七品下。次官として従八品下の(鼓吹丞)が3人ついた[7]。他の職員の定員と官品は、府(鼓吹府)3人、史(鼓吹史)6人、楽正4人が従九品下で、さらに典事4人と掌固4人がいた[7]。『旧唐書』職官志が記す職務は、鼓吹を統率・教習し、皇帝、皇太后、皇后、皇太子の外出時に従うこと。日食や大儺の儀式で鼓を打たせることである[7]。他にも多くの儀式に太楽令とともに参加した。

では、鼓吹楽という楽曲の編成と[8]、皇帝の鹵簿(皇帝が外出する際のもっとも大規模な行列)の規定の中に[9]、鼓吹令2人、鼓吹丞2人がある。長官である令が2人というのはかなり異例だが、以後の史書の同様の規定の中に「鼓吹令2人」が踏襲される。その一方で、官制について述べた文で鼓吹令を2人と記したものはない。

では、太楽令が鼓吹令を兼ね、太常寺に属した『金志』百官志によれば定員1人[10]。しかし、天眷3年(1140年)の皇帝の行列の編成の中に、鼓吹令2人、鼓吹楽2人と記されている[11]

の鼓吹令は、太常寺に属し、定員1人[12]。鼓吹令はこの宋の時代をもって最後となった。

元・明・清

太常礼儀院の下に協律郎と太楽署・太楽令を置いたが、鼓吹署・鼓吹令はなかった[13]

で音楽は太常寺の管轄で、協律郎司楽が音楽を担当したが、音楽専門の官署はなかった[14]

では音楽は楽部の管轄で、神楽署の神楽令などがいたが、鼓吹署・鼓吹令はなかった[15]

脚注

参考文献

外部リンク

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