鬼丸
日本刀
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鬼丸(おにまる)は、鎌倉時代に作られたとされる日本刀(太刀)である。皇室の御物(私有財産)として、宮内庁が管理している[注釈 1]。天下五剣の一つに数えられている[1]。

鎌倉時代13世紀、山城国の京粟田口派の刀工で、粟田口六兄弟の末弟である国綱の作とされる[2]。北条時政が火鉢の鬼形を斬ったことにより鬼丸と号し、刀工名を付して鬼丸国綱(おにまるくにつな)とも呼ばれる。享保4年(1719年)成立の『享保名物帳』に収載されたことから、「名物 鬼丸」と称される[1]。
15世紀頃に成立した『剣巻』の物語中において、髭切が「鬼丸」と改名される譚が存在するが[6][7][8]、本項目の鬼丸はこれに由来するものではない。
作風
刀身:鎬造、庵棟、中鋒かますごころとなり、輪反りごころに反り高く踏張りがある。鍛は小板目、小杢目交じり、肌よくつみ地沸つき、地景交じる。刃文は小湾れに互の目、小乱交じり、足入り、総体に匂口沈みごころに小沸つき、表裏に腰刃を焼く。鋩子は表裏乱れ込み、表先大丸に、裏尖りごころに掃かけかかる。茎生ぶ、先やや細って栗尻、鑢目勝手下り、目釘孔一、目釘孔の上、棟寄りに太鏨の二字銘がある[9]。
外装:黒漆塗革包太刀拵、南北朝 - 室町時代(14世紀)[1]、総長109.0 柄長22.0 鞘長86.8 (cm)[10]。鞘、皺革包、足革包、太鼓金は銅漆塗。渡巻茶糸平巻。柄、革包茶糸平巻、目貫丸に桐紋金容彫[1]。この拵の様式を特に「鬼丸拵」と呼び、革包太刀拵の本科である[11]。
伝来
伝承
南北朝から室町時代にかけて成立した軍記物語『太平記』には、北条時政の火鉢に鋳込まれた鬼形の角を太刀が斬り落とした説話が記されている[12][13]。
北条時政が天下を治めていた頃、身の丈一尺ほどの小鬼が夜な夜な枕辺に現れ、時政を殺そうとする怪異が続いた。修験者や陰陽寮による加持祈祷も効を奏さず、時政は病に伏せるようになる。ある夜の夢に、この太刀が老翁の姿をとって現れ、「常に汝を守護しているが、穢れた者の手で剣を取られたために錆が生じ、身から抜け出せなくなっている。あの妖怪を退けたくば、清浄なる者に我が身の錆を拭わせよ」と告げた。
時政は夢の教えに従い、侍に水浴させて太刀の錆を拭わせたのち、鞘に収めず枕辺の柱に立て掛けた。折しも冬のことで、部屋を暖めようと近づけた火鉢の台に目をやると、銀製の小さな鬼の鋳物が据えられており、その姿は夜な夜な時政を悩ませていた鬼に生き写しであった。時政がそれを見守るうち、抜き身のまま立て掛けてあった太刀がひとりでに倒れ掛かり、火鉢の台の鬼の首を切り落とした。これにより怪異は止み、時政の病も平癒したことから、この太刀は鬼丸と名付けられ、高時の代に至るまで北条氏の守り刀として嫡家に伝えられた。
元弘三年(1333年)、相模入道高時が鎌倉東勝寺で自害するに際し、この太刀は次男の亀寿に託されて信濃国へ持ち出された。翌建武二年(1335年)の鎌倉合戦で北条時行方が敗れると、諏訪三河守ら四十三人が大御堂に籠もり自害する中からこの太刀が見出され、新田義貞のもとへ届けられた。義貞は「これこそ聞き及んでいた平家重代の鬼丸である」と大いに喜び、以後秘蔵したという。この太刀の作者について、陸奥国宮城郡の府に住む三の真国という鍛冶が、三年間精進潔斎し七重に注連縄を張って鍛えたものである。 — 『太平記』より大意
『太平記』の記述では、中先代の乱において、鬼丸は自害者の中から見出され、新田義貞が鬼丸を収得したとされる。これに対し、刀剣史研究家の福永酔剣は、北条時行を討伐したのは足利尊氏であり義貞ではないという『梅松論』の記述[14]との相違を指摘し、その上で義貞の武将・船田義昌が捕えた時行の兄・北条邦時を経由して義貞の手に渡った可能性を推測している[15]。ただし、この推測の前提となる経路について、『太平記』を含むいずれの同時代史料にも邦時が鬼丸を所持していたことを示す記述は見当たらない。
『太平記』では鬼丸の刀工は国綱ではなく「奥州宮城郡の府に、三の真国」と記されている[12]。日本最古の古剣書とされる鎌倉時代後期成立の『観智院本銘尽』には、村上天皇の御宇に「鬼丸」という刀工がいたと記されており[注釈 2]、この刀工は、後世に出羽月山派の始祖として「鬼王丸」と称される[18]。真国は鬼丸の作を模してこの太刀を鍛えたものと解されている[19]。
刀剣博物館の古文書講師である間宮光治は、『観智院本銘尽』に真国を「藤六左近」と記すことに着目し、その原文「鬼丸(中略)藤六左近貞(真)国作也、藤林ヲチナリ」から真国の出自を分析した。「藤林ヲチナリ」を「真国にとって粟田口六兄弟の長男・藤林国友が叔父にあたる関係」と読み解き、真国を国綱の娘婿、あるいはその弟子にあたる人物と推測している。このことから鎌倉期における鎌倉山内鍛冶と京粟田口鍛冶との間に血縁関係が存在した可能性を指摘している[注釈 3][19]。室町時代以降、真国の茎押形の上に「粟田口国綱弟子」との注記があり[21]、現代の銘鑑類でも真国を国綱の弟子とすることが定説となっている[22][20]。
江戸時代の注釈書『参考太平記』では、三の真国を「伯耆国大原真守の三代の孫、安守の子で、初名は安房、後に奥州へ移住して真国と改名した」としている[23]。この説は平安時代後期の刀工とされ、粟田口国綱弟子とする説とは年代的に整合しないが、近世以降の諸書に散見される[24][25]。ただし、成立年代が遅く、同書に典拠は明示されていない。

『太平記』では、鬼丸は次のような物語として描かれている。湊川の戦いにおいて、新田義貞は鬼切・鬼丸の二振の太刀を帯びていた。官軍が劣勢となり義貞の乗馬が矢を受けて倒れると、義貞は単身で敵に囲まれた。このとき義貞は鬼切と鬼丸を左右の手に抜き持ち、降り注ぐ矢を飛び越え、かがみ、あるいは二振りの太刀を交差させて切り落とし、十六本まで防いだと描かれる[注釈 4][27][28]。藤島の戦いで義貞が討たれた後、その遺体からは二振りの太刀が見出された。一振りには金の鎺に銀字で「鬼切」、もう一振りには銀の鎺に金字で「鬼丸」と沈銘されており、いずれも源氏重代の重宝と確認された[29][30]。この二振りは義貞を討った斯波高経の手に渡ったが、足利尊氏が「末々の源氏などが持つべき物ではない、当家の重宝として嫡流相伝すべし」と度々提出を命じた。高経はこれを惜しみ、「長崎の道場に預けていたが炎上して焼失した」と偽り、同じ寸の太刀二振りを焼き損じて差し出した。後にこの偽りが露見し、尊氏は大いに怒り、高経に対して抜群の戦功がありながら格別の恩賞も行わなかったという。鬼切・鬼丸二振のその後の行方については、『太平記』の物語中では触れられていない[12][13]。
『太平記』に描かれた鬼丸はあくまで軍記物語上の伝承であり、現存する御物の鬼丸国綱は足利将軍家に伝来した粟田口国綱の正真銘作であり、奥州真国の作とする伝承に基づくものではなく、またいかなる刀剣の模作にも当たらない。『太平記』に描かれる鬼丸とは、後世において比定された関係にある[31][32]。
来歴
本刀に関する文献上最古の記述は、鎌倉時代後期の『観智院本銘尽』にある。同書には、法光寺殿(北条時宗)が京の粟田口の刀工・助綱を鎌倉に召して鬼丸を作らせたと記されている[33]。
重要文化財『観智院本銘尽』国立国会図書館蔵, 1316年頃成立、1423年写古今諸国鍛冶之銘
助綱 あわた(粟田)口、ほうくわうし(法光寺)殿御代め(召)し下され、おにまる(鬼丸)作なり、太刀刀ともにまれ(稀)也、大きりやすり(切鑢)、かまくら(鎌倉)のくろまをうち、とうさこん(藤左近)とかう(号)す、正和五年まてハ百卅年也。
現代の研究者の間では、この「助綱」を粟田口国綱の誤記とみなしている[2][34][35][36]。古刀研究の権威である本間薰山は、この助綱を鎌倉一文字派の刀工と考えている[注釈 5][38]。助綱と粟田口国綱との関係は、鎌倉鍛冶および相州伝成立期における未解の宿題となっている。
次いで古い記述として、南北朝時代の観応2年(1351年)12月頃に書写された『龍造寺本銘尽』には、「国綱 ヲニ(鬼)丸」「国綱 とう(藤)六」と記されている[39]。同書は、足利直冬の陣中に滞在していた龍造寺家政が、直冬またはその関係者の所持する秘本の刀剣書を借用して書写したものと考えられており[40]、鬼丸を国綱作とする現存最古級の記録である。
室町時代前期になると、鬼丸の由来は最明寺殿(北条時頼)に結び付けて語られるようになった。足利義満に仕えた鑑定家・宇都宮三河入道の伝書『宇津宮本銘尽』には、「国綱 最明寺殿鬼丸造之」と記され、鬼丸を北条時頼の命による作とする説が見える[41][42]。室町時代以降、近代に至るまで、北条時頼が粟田口国綱を鎌倉に召し、鬼丸を作らせたとする理解が広く受け継がれ、通説として流布した[43][44][45]。一方で、『観智院本銘尽』は、文化年間に津田葛根によって東寺から持ち出され、明治年間に国立国会図書館に寄贈された[46]。それ以前は流布しておらず、北条時宗説は一般には知られていなかった。なお、『太平記』の原文では鬼丸にまつわる説話の登場人物は北条時政であるが、現代の各種媒体においては北条時頼に置き換えた形で語られることが多い[47]。これは北条時政の在世期が粟田口国綱の活動期と整合しないことによる後世の解釈であるが、『太平記』の原文とは異なる。
室町時代、足利将軍家への伝来について、『天正本目利書』[48]および『埋忠本 能阿弥本銘尽』[49]には、国綱の項に「西明寺殿(道)崇鬼丸作」とあり、続けて「普広院殿(足利義教)御こし物ニ正本ノ国綱ト似せ国綱あり、御最期の時しるしを見せたてまつりしを御さとりなくて、 天下に沙汰す、此作重宝ノシサイ多シ云々」と記されている。これは鬼丸が足利将軍家に伝来し、国綱銘の刀が将軍家の重宝として扱われていたことをうかがわせる記録の一つである。ただし、同記事は将軍家に国綱銘の刀が複数存在し真銘と偽銘が混在していたことを示唆しており、鬼丸の伝来をめぐる史料状況はなお錯綜している[注釈 6]。
本阿弥家の伝承によれば、足利義政の代に斯波高経の子孫が代々の恩顧への報謝として鬼丸の太刀を献上し、これにより東山御物となったとされる。その後、鬼丸は足利将軍家に伝来した[52]。ただし、高経の子孫から義政への伝来経路を裏付ける同時代の一次史料は確認されていない。近代には、斯波義敏が足利義政との不和による不利を察し、鬼丸を義政へ献上したとする説も見られる[53]。
安土桃山時代以降の伝来については、足利義昭から織田信長を経て豊臣秀吉に渡ったとする説[31][52][54][55]と、義昭から直接秀吉に渡ったとする説[32][56][57][58]があるが、いずれも同時代の一次史料による裏付けはない。
江戸時代の随筆集には、豊臣秀吉の治世下、諸方より宝物が献上される中、足利義昭のみが何も献上しなかったため、秀吉が「再び天下を取ろうという志があるのではないか」と不快の意を示したと記されている。これを伝え聞いた義昭は恐れ入り、家伝の宝剣を献上したという。その後、鬼丸は京都の本阿弥家にお預け[57]。鬼丸は関ヶ原の戦いの後、本阿弥光徳より徳川家康に献上されたが、家康は「もとの家から出た物なのだから、そこへ返せ」として、これを返却したという。さらに徳川秀忠の代にも、本阿弥光室より再び献上されたが、「家康公が愛用されなかった物を召し上げる理由はない」として、再度本阿弥家へ返されたと伝えられている[56]。一方、本阿弥家の伝承では、これらとは異なり、鬼丸は大坂御陣の頃に本阿弥光室より徳川家康へ献上されたとされる[52]。
豊臣秀吉が鬼丸を本阿弥家に預けたのは火災除けのためとされ、本阿弥家が聚楽第から見て火伏せの方角に位置していたことや[32][51][57]、京都が大坂の鬼門に当たるとされることから、鬼門封じのため京都の本阿弥家に置かれたともいわれる[47]。
鬼丸は細川幽斎のもとを経たとも伝えられ[52][57]、細川幽斎はこれを写して『鬼丸太刀図』を作成し、さらに鬼丸拵の写しを作らせたとされる[注釈 7]。なお、細川幽斎は鬼丸をことのほか愛好し、その拵を「楠造」と称したと伝えられる[32][58]。これは「楠公造」の意であり、この時代には鬼丸を楠木正成の陣太刀とする伝承が存在していたことを示している。すなわち、当時の伝承は『太平記』に新田義貞の鬼丸とは異なる系統に属していた[47][57][60]。
本阿弥光徳は、本阿弥宗家九代当主であり、豊臣秀吉の刀剣御用を務めた人物である。秀吉の「刀狩」に際して天下の名刀を鑑定・管理し、豊臣家蔵刀の記録にも深く関与した。光徳は、豊臣家に集められた名刀の押形を描き留めた『光徳刀絵図』を複数制作しており、現存する諸本にはいずれも鬼丸が掲載されている。天正16年(1588年)の石田本(石田三成宛)には、鬼丸として全身押形が収録されている[注釈 8]。その後、文禄3年(1594年)の毛利本(毛利輝元宛)にも鬼丸が掲載され、さらに文禄4年(1595年)の大友本では、石田本・毛利本が片面のみであったのに対し、表裏両面の押形が収録されている。慶長5年(1600年)の伝本および元和元年(1615年)の埋忠本にも鬼丸が収録されており、埋忠本には、鬼丸拵が埋忠寿斎によって修復・製作されたものと解されている注記が見られる。少なくとも桃山期から江戸初期にかけて、鬼丸が太閤御物として本阿弥家の管理・記録下にあったことを示す史料群である[61][66]。
寛永3年(1626年)11月13日、徳川秀忠の娘である和子(東福門院)が後水尾天皇との間に第一皇子(高仁親王)を出産した。これに伴い、同年12月4日に幕府から朝廷へ祝いの太刀が献上された。当時の一次史料である公家の日記『資勝卿記』(日野資勝記)には、「自関東大御所樣若宮樣へ鬼切ト申御太刀参候由也」と記されている。また『中院通村日記』では、大御所より二胴切の大原実守の太刀一振が献上されており、将軍家のものは「帯太刀也、銘不聞也(銘は聞いていない)」と記されている[67]。一方、江戸幕府の公式史書である『徳川実紀』は同件を「宝刀鬼切丸進らせらる」と記しており[68]、のち「鬼切丸国綱」と称されている[60]。先の慶長8年(1603年)4月、本阿弥光悦は、国綱と銘がある「鬼丸の太刀」と註記された押形を取り、茎には目釘孔が二つあり、現存する鬼丸とは一致しない[19][69]。『本阿弥行状記』の記述では、この「鬼切丸国綱」は、『太平記』巻第二十三に見える大森彦七所持の楠木正成の陣太刀に関わる伝承に由来するとされ、新田義貞の鬼丸ではない[70]。この太刀には祟りがあるとして、秀頼公が本阿弥家に預けていた。天下の刀剣の中で第一として貴ばれるとする記述があり、天子の御宝物であってもあえて名を表に出さないことによるものとされるほか、度重なる炎上にも無事であり、わずかな煙も受けず、鎺金が溶けて太刀に流れかかっても茎の色まで変わらないといった逸話が見られる[60][71]。
寛永5年(1628年)6月、高仁親王は2歳で夭折した。本阿弥家に伝わる話では、先に「鬼丸」が献上された際、洛中は奉祝ムードに沸き、祝賀の踊りが盛んに行われ、本阿弥家からも踊りの一組を出して祝意を表したという。その後、「鬼丸」は再び本阿弥家へ返されたとされ、世人は、秀吉からの預かり物を献上したことや、本阿弥家の踊り唄に不吉な文句があったことを理由に、親王さまはなくならはった、と非難したという[47][51]。ただし、本阿弥家へ返されたとする話については、同時代史料には見られない。のち享保4年(1719年)に徳川吉宗の命により本阿弥家が編纂した『享保名物帳』では、これらの記録は現存する鬼丸の由緒として扱われている[32][72]。
『享保名物帳』では、『太平記』巻第三十二に基づく、北条時政以来新田義貞へ至る鬼丸伝承が定着している[32][13]。享保名物帳の成立は、享保3年(1718年)、8代将軍徳川吉宗が本阿弥家に対して刀剣名物帳の提出を命じ、名刀の把握と収集を図ったことに始まる。鬼丸もまた吉宗の上覧に供されることとなり、同年9月4日、若年寄・大久保佐渡守常春より本阿弥光忠に対して、鬼丸を江戸へ持参するよう申し渡された[51][47]。
9月15日、本阿弥光忠は拝領した伝馬二疋・人足八人を従えて京都を発った。鬼丸は当時、京都の小川通今山川上ルにある本阿弥屋敷に保管されており、光忠はこれを担いで東海道を下り、10月18日に江戸へ到着した[51][47]。道中は幕府の御朱印によって往来し、厳重な取り扱いのもとで運ばれた[52]。
この江戸滞在中について、本阿弥家の記録には次のような逸話が伝えられている。鬼丸が下谷広小路の本家・三郎兵衛方に安置されている間、不忍池の端の弁天近辺に棲んでいた狐たちがどこかへ逃げ去り、狐火が一切見られなくなったという[52]。
10月21日、鬼丸を江戸城に持参した[51][47]。徳川吉宗の上覧の際には、御小姓頭取を勤めていた田沼主殿頭が、注連縄で巻き封じられた鬼丸の太刀箱を持ち出した。吉宗が自らの脇差を出して「これで封を切れ」と命じると、その小刀を箱の上へ持っていこうとするたびに、ひとりでに下へ落ちてしまった。吉宗がもう一度試させても同じことが起きたため、吉宗は不思議なことと思い、その小刀を元通りに差したという。このことは、主殿頭が密かに光忠へ語ったものであると伝えられている[52]。23日、吉宗は上野東照宮において鬼丸の再観覧を行った[73]。将軍の上覧が終わると、27日に鬼丸は本阿弥家へ下げ渡され、本阿弥四郎三郎光勢が京都へ返納した[47]。閏10月11日、本阿弥光忠に白銀二十枚の褒美があった[74]。
本阿弥家では鬼丸の押形そのものにも霊力があるとされ、特に瘧(おこり)や狐憑きを落とす効験があると信じられていた。これは、光悦の七代目の子孫にあたる本阿弥長根が、自ら採取した鬼丸の押形に添えた添え状に記されたものである。長根は、この押形を「大切にすべきもの」としながらも、紛失の恐れがあるため、これを甲州家へ差し上げる旨を記している[47]。鬼丸は本阿弥家の屋敷内にある土蔵に安置されていた。この土蔵には鳶や烏の類が止まらないと伝えられ、当家の者の目の当たりにも奇瑞や霊験とされる現象があったという。拝見後には畏怖と尊信の念が深まったと記されている。『諸家名剣集』では鬼丸を天下出群の名刀五振のうち随一と評している[75]。
王政復古後の明治元年、朝廷は預けられていた本阿弥家に対し、鬼丸は朝廷の御物になったためその名称を従来の「鬼丸の太刀」から「鬼丸の御剣」と呼ぶよう通達した[51][76][77]。明治2年12月(1870年1月)、京都太政官による畿内の宝器調査に際し、本阿弥守人は口上覚えを提出した。同書によれば、鬼丸は後水尾天皇の皇子降誕の際に御所へ差し上げたが程なく返却され、御維新後の辰正月に参政御役所へ願い出たところ、引き続き守護するよう申し付けられた[31]。
明治4年(1871年)6月、本阿弥家の能役者等の農商への入籍が伺われ[78]。同年10月8日、本阿弥家は平民籍に編入された[79]。これを機に本阿弥悌三郎は10月20日付で京都府を通じて鬼丸御剣の上納を申し出た[80]。同年10月29日、宮内省への上納が認められ、11月14日(1871年12月25日)に引き渡しが完了した。以来、鬼丸は皇室の御物として宮内庁が管理している[81]。
展示記録
御物としての性格上、一般公開されることも少なく、書籍等に掲載される写真も、数少ない機会に撮影された古いものに限られている。過去には以下の機会に一般公開されている。
| 時期 | 展覧会 | 場所 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 1929年(昭和4年)3月19日 - 4月15日 | 日本名宝展覧会 | 上野公園東京府美術館 | [82] |
| 1947年(昭和22年)5月25日 - 6月25日 | 刀剣美術特別展覧会 第1回 名刀集美 | 東京国立博物館 | [83] |
| 1947年(昭和22年)9月29日 - 10月2日 | 国宝美術刀剣大展覧会 | 大分県別府市名物料亭「なるみ」 | [84] |
| 1956年(昭和31年)8月7–19日 | 歴史を物語る名刀展 | 日本橋高島屋8階催場 | [85] |
| 1958年(昭和33年)10月15–20日 | 全国名刀展 第3回 皇室御物と国宝並に各神社御宝刀 | 神宮徴古館 | [86] |
| 1966年(昭和41年)5月3–8日 | 日本刀のすべて:世界に誇る鉄文化の粋 | 大阪心斎橋大丸7階催場 | [87] |
| 1967年(昭和42年)10月1–22日 | 歴史を語る日本名刀展:武将とその愛刀 | 長野信濃美術館 | [88] |
| 1970年(昭和45年)8月28日 - 9月2日 | 日本名刀展:英米からの里帰りと国内の名作 | 大丸東京店 | [89] |
| 1986年(昭和61年)9月23日 - 11月30日 | 御在位六十年紀念:日本美術名宝展 | 東京国立博物館、京都国立博物館 | [90] |
| 1997年(平成9年)11月5–24日 | 日本のかたな:鉄のわざと武のこころ(後期のみ) | 東京国立博物館2階第13室 | [91] |
| 2002年(平成14年)5月25日 - 6月23日 | 正宗:日本刀の天才とその系譜 | 巡回展4/4 根津美術館(根津のみ) | [92] |