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1960年桑絹村長選挙

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1960年桑絹村長選挙(1960ねんくわきぬそんちょうせんきょ)は、1960年昭和35年)4月27日に投開票が行われた、日本の地方自治体である栃木県下都賀郡桑絹村(現・小山市)の村長を選出するための選挙。村域の一部の分村合併を巡る混乱に端を発し、最大で267人、最終的に202人が立候補した一方、190人の候補が得票ゼロに終わるという過去に類を見ない選挙戦となった[1][2]

概要 投票率, 候補者 ...
1960年桑絹村長選挙
1956年 
1960年4月27日 (1960-04-27)



投票率 83.62%
 
候補者 菅沼良太添野一稲葉長寿
政党 無所属無所属無所属
得票数 4,0362,4521,152
得票率 52.74%32.04%15.05%

選挙前村長

伊沢照男
無所属

選出村長

菅沼良太
無所属

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概要

栃木県における旧桑村・絹村及び小山市、茨城県結城市の位置関係図。現在の市役所及び出張所の位置を記載。

桑絹村は、1956年(昭和31年)に下都賀郡桑村絹村が合併して成立した村である。絹村は、繭と紬の産地であることを理由にその名がつけられたものであり[3]結城紬の主産地であった[1]。結城紬は、問屋の力が強い傾向にあり、その問屋は茨城県結城市に集中していた[4]。「生まれた、病気になった、死んだといっても結城にいくのだから」と住民が言うように、経済的・文化的・地理的にも結城市とのつながりが強く、住民の中には結城市との越境合併を望む人もおり、激しい対立が生じた[1]。桑絹村成立後も、旧絹村の一部を分村し、結城市への編入を目指す運動が展開され、激しい分断を招いていた[1]。こうした中で、1960年(昭和35年)に現職の村長が死去し、村長選が行われることとなり、結城市との越境合併を主張する勢力が大量立候補を敢行し、最大で267人、最終的に202人が立候補する事態となった[1]

背景

桑村と絹村の合併計画と白紙化

1934年の栃木県地図。「絹」「桒(桑)」の両村名、小山町・茨城県結城町の両町名や、絹村役場のある「福良」、分村運動の舞台となった「梁」「中島」などの字名の記載もある。
結城市中心部周辺の空中写真(2021年)。北東部を蛇行する田川の北側が旧絹村南部に当たる。国土交通省 国土画像情報(カラー空中写真)(現・地図・空中写真閲覧サービス)の空中写真を基に作成。

1953年(昭和28年)10月1日に施行された町村合併促進法(3年間の時限立法であり1956年(昭和31年)9月30日に失効[5])を受け、栃木県では、1953年10月3日に栃木県町村合併促進審議会設置条例が制定・公布され、36人の委員からなる審議会が設置された[6]。審議会は合併計画の作成を進めたが、これとは別に県当局による独自の活動が並行して行われ、徐々に後者が先行し、県は職員を町村に派遣して合併に関する現地の意向などの基礎調査を行い、12月28日には県の「町村合併計画試案」が決定された[7]。審議会は翌1954年(昭和29年)2月20日に中間報告を提出したが、年度内の最終決定には至らず、5月2日に「町村合併計画」を決定した[8]

桑村と絹村については、「町村合併計画試案」において両村の合併が規定され、その後国分寺村(現下野市)を含んだ合併や、桑村と国分寺村、絹村と河内郡吉田村薬師寺村南河内町を経て現下野市)の合併案も浮上したものの、最終的に「町村合併計画」では桑村と絹村の合併案が規定されることとなった[9]。この決定に内発的な動きはなく[10]、両村とも県計画の合併には積極的ではなかった[11]。一方、結城市側にも「大結城市構想」として絹村の合併を主張する声があったが、「結城市史」は、「市制施行直後の結城市では、当面する諸問題に忙殺されて、絹村合併問題についてみるべき手を打てなかった」としている[12]

絹村では、1954年3月20日に結成した絹村町村合併研究会が近隣町村の動向を調査し、9月7日に桑村の視察を行った際に両村の間で合併促進協議会を設けることで意見が一致した[13]。合併研究会から改組して発足した合併促進会[11]の主催で12月に行われた絹村の各地区座談会では、結城市(同年3月に市制施行)との越境合併を望む地区が11、桑村との合併を望む地区が9、「大勢に従う」とする地区が4となった[1]1955年(昭和30年)になると、4月の第3回統一地方選挙前の合併という県の方針を反映し、桑・絹両村の合併の方向で急速に進み始め[14]、絹村議会は2月10日、合併の目標町村を桑村に決定、翌11日に合併促進会も議会への無条件委任を決定するとともに、桑村も2月28日に最高方針として「可及的速やかに小山市に合併する」ことを条件に、第一段階としての桑・絹合併を3月末に行うと決定した[15]。一方、桑村との合併に反対する絹村住民は、結城合併期成同盟会を結成し、桑村との合併反対署名運動を展開した[16]。署名運動は絹村南部から中部に拡大し、さらには桑村にも波及する勢いを示した[12]。同盟会は、桑村役場で実施予定だった両村の合併に向けた準備協議会を妨害する目的で桑村役場に詰めかけ、同協議会は中止され、村長・村議選もあることから、合併は保留となった[16][17]。のちに合併計画は白紙となり、同盟会も解散した[16]

合併の強行と桑絹村の誕生

しかし、町村合併促進法の失効が迫った1956年(昭和31年)になり、栃木県庁の働きかけが活発になった[17]。未合併による不利益を問題視する桑村では、各地区の意見を集約し、県の合併計画に賛成が46%、小山市との同時合併17%、未決定が37%となり、7月30日の合併促進委員会において、満場一致で絹村との合併を認めることを決定した[18]。一方、絹村では結城市との越境合併派の影響が強く、合併促進会では意見の一致は困難であったため、8月4日の県地方課長と村首脳の懇談会で、村側は住民投票を求めたが、県はそれに反対し、「指導者による与論の統一」を求めた[19]。この際、県側は結城市との越境合併を求める絹村南部地区について、「真に結城市に合併を希望するならば、桑村との合併後に境界変更等の措置を講ずるよう研究すべき」であると述べ、桑村との合併後の分村に応ずるような発言もしたという[19]。8月18日には、絹村議と結城市長・茨城県地方課との懇談会が行われ、結城市側は村議会で合併の議決をしてくれれば受け入れについて努力すると述べたが、絹村側は「全村一致で結城市合併を決議することは困難である、一部境界変更で行く外ないと思われる」と述べたという[19]。「小山市史」は、「これは栃木県側の桑合併後の分村を示唆したかのような発言の影響かもしれない」と評している[19]

8月27日に絹村合併促進会は桑村との合併を決定[20]。村議会も9月8日の臨時会において桑村との合併を賛成11、反対5で決議した[16]。大規模な騒動が予想されたため、小山警察署から警官が多数派遣されるという厳戒態勢の中、出席した県側が合併後の分村を認めない旨の発言をしたこともあり、紛糾した議会となった[21]。出席要求を受けた県地方課は、「県は結城市との合併意思はない。分村して合併させる意思もない」とし、8月4日の県側発言については「10月に入って分村する場合は、桑村と合併して後に分村運動を続けて行ったらどうかと云うことであろう。分村問題の可能性は極めて困難である」と述べ[22]、発言を否定した[23]。この決議に反対する南部の住民は一切の公職返上を行い、南部出身の村議5人も議長宛てに辞表を提出した[24]。なお、桑村議会でも9月8日に合併の決議が行われ、満場一致で可決された[25]

1956年9月30日、桑村と絹村は合併し、桑絹村が発足。旧桑村役場が桑絹村役場の仮庁舎、旧絹村役場が桑絹村役場絹支所となり、職務執行者には旧桑村長の伊沢照男が就任した[26]。合併後の桑絹村の面積は47.74km2、合併時の人口は17,462人、戸数2,872戸であった[27]。合併後の村長選挙は11月17日に執行されたが、候補者が1名のため無投票となり、旧桑村村長の伊沢照男が新村長に就任した[27]

旧絹村における分村運動

桑絹村の誕生後も、結城市との越境合併を求める運動は継続した。分村・結城市合併派は新たに「結城市合併促進会」を結成し、10月20日、絹地区南部の7地区(岸福、台、福良橋、休、中河原、下梁、西梁)は今後納税を拒否して一切村政と絶縁すると宣言した[28]。納税拒否、消防団やPTAなど各種団体から脱退するなど、様々な手段で分村運動を展開した[29]。また、絹地区中部の3地区(中島、中福良、請地)からも納税拒否運動に合流する者が出た[30]

茨城県側との協同も進み、9月22日に茨城県議会、9月25日に結城市議会において「絹村分村地区受入決議」がなされたほか、11月23日には結城市中央小学校で「結城市合併完遂住民大会」が開催され、絹地区南部330人、中部180人が参加し[31]、結城市からも代表が送られ、連帯関係を深めた[32]。しかし、栃木県及び桑絹村当局は分村を拒否する方針を固持し、対立は長期化した。運動に同調しなかった住民が分村派から村八分にされたとして宇都宮法務局に訴えるという事件や、村当局が納税拒否を続ける分村派に対して土地の差し押さえと公売など強権発動の姿勢を示し、その一部を実施するなど、対立は激化した[33]

1957年(昭和32年)3月29日、分村派がかねて陳情していた、あっせん・調停・住民投票の請求の権限を持つ自治庁の町村合併調停委員会への付議が実現した[34]。これにより、分村派の運動が活発になるのみならず、分村反対派も陳情や組織的行動をとるようになり[35]、絹地区の分村反対派は8月29日に協議会を開催して、「分村反対現状維持確保」を宣言した[36]。分村派の行動も先鋭化し、9月27日に行われた桑絹村議会議員選挙では、「先に声明した村政絶縁の立場から立候補並びに投票などは行わない空気にある」とし、実際に約1,000人が棄権した。「小山市史」はこの行為を「運動の場をみずから狭めたといえよう」と評している[37]。なお、桑村と絹村の合併祝賀式は、当初分村合併問題の「円満解決後に実施する方針」であったが、調停に付されたことで解決の見通しが相当長期にわたることとなったことから、祝賀式を同年8月3日に行い、合併祝賀行事は実施されなかった[38]

調停委員の作業は順調に進まず、調停案が提示されないまま時間が過ぎた[37]。対立が続く中、1960年(昭和35年)3月28日に伊沢照男村長が急逝した[29]。これを受け、村長選挙が行われることとなった[1]

選挙データ

  • 選挙事由 - 欠員(現職の死去[1]
  • 告示日 - 1960年4月20日(水)[39]
  • 立候補締切 - 1960年4月23日(土)[39]
  • 投開票日 - 1960年4月27日(水)[39]

立候補者

当時、立候補届け出は告示日後の数日にわたり受け付けており、初日となる4月20日には桑村の元村長で栃木県議会議員を3期務めた[39]菅沼良太、村の前助役[40]で合併時の絹村長だった[41]添野一のほか、結城市合併派16人が立候補を届け出た[42]。さらに、22日には絹地区南部から205人が立候補を届け出るに至った[43]。最終的には267人が立候補を届け出た[1]。大量立候補の理由については、桑地区だけでなく絹地区北部も分村に反対しており、村長選に勝つ見込みがないことから[29]、村当局に対する事務の複雑さを狙う嫌がらせと、結城市への越県合併の団結を誇示し、国に知らせるためのPRであると報じられた[1][29]

大量立候補者の中には、親子同士の者[43]、親夫婦と息子夫婦が一緒に出馬した者[1]、一家四人が出馬した者[29]や同姓同名の候補者[1]もいたという。また、被選挙権を持つ者全員が立候補届出を行った集落や、集落内で同じ姓の人が多いことから印鑑を使いまわして立候補届出をしている事例もあった[44]。候補者の年齢層も、被選挙権を得たばかりの25歳2か月の者から84歳の者まで様々だった[45][40]。立候補の届け出も、各地区から代表十人程度が一括して提出した[29]

一方、立候補締切日の24日に36人が立候補を辞退し、さらに25日には19人、26日には10人が立候補を辞退したことで、最終的な立候補者は202人となった[46]。当初から「"まともな候補者"は元県議(菅沼)と前助役(添野)だけ」[29]と報じられ、村選管は「お化け選挙」と嘆いていた[40]。絹地区南部から立候補した200人のうち、分村合併促進会長の稲葉だけが選挙事務所を開いた[40]。立候補者が202名にも及んだのは全国初の事例である[47]

選挙結果

各候補の得票率

  菅沼良太 (52.74%)
  添野一 (32.04%)
  稲葉長寿 (15.05%)
  他の候補(199人) (0.16%)

当日有権者9,302人に対し、投票総数は7,778票[39]となった。投票自体は特に混乱なく行われ、またその日のうちに行われた開票作業も、同姓同名の候補の得票数の確定に手間取ることなど混乱が予想されていたが、これらの候補の得票がわずかであったこともあり、特に問題は起きなかった[48]

最終的な立候補者は202人であったが、分村推進派は最終的に稲葉に候補を一本化し[39]、190人もの候補者が一票も得られない結果となった[1]。分村反対派の菅沼が過半数の票を得て当選し、分村推進派の稲葉は3位に終わった[1]。「小山市史」は、「この奇策は何の効果もなく、桑絹村全体では結城合併派は少数であるという印象を残したのみであった。先の村議選ボイコットといい、もっと正攻法で分村・結城市合併の正当性と必要性を桑地区住民をも含めて訴えるべきであったろう」と評している[49]

選挙結果[39][50]

※当日有権者数:9,302人 最終投票率:83.62%

さらに見る 候補者名, 年齢 ...
候補者名年齢所属党派新旧別得票数得票率推薦・支持
菅沼良太59無所属4,036票52.74%
添野一57無所属2,452票32.04%
稲葉長寿48無所属1,152票15.05%
杉山貞作50無所属3票0.039%
田村安夫37無所属2票0.026%
吉田治郎51無所属1票0.013%
横田吉十郎55無所属1票0.013%
仁見豊59無所属1票0.013%
須藤清吉54無所属1票0.013%
柴山平吉38無所属1票0.013%
釜屋大十二37無所属1票0.013%
宮崎クラ32無所属1票0.013%
ほか190人00.00%
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選挙後の動き

調停案の提示と対立の激化

村長選後の1960年8月、自治省は現地視察を行い、担当者は「分村地区に賛否両論はあるが、大部分の住民が合併を希望しているので、終止符を打つべき時が来ている」と述べ、調停案が提示される目途が立った[51]。調停に付されてから4年が経過した1961年(昭和36年)3月14日、絹地区南部の7地区について「当該地区住民大多数の結城市編入の希望は・・・一貫している」として分村・結城編入を結論付ける調停案が、栃木・茨城両知事、結城市長、桑絹村長、住民代表と個別に会談して内示された[52][53]。小山市史は「分村派の「勝利」といえる内容であった」[52]と評し、結城市史も「長い苦しい分村合併運動が調停委員会によってようやく認められた」[53]とした。この調停案について、同年5月11日の参議院地方行政委員会では、民社党相馬助治参議院議員(栃木県選出)は、従来慣習・水利・生活環境・今までの経緯からも、こういう分村案というものは出ないであろうと村当局や県は考えていたと述べ[54]、これに対し自治省行政局長の藤井貞夫は「合併の問題について、・・・やはり地元の住民の意向というものを第一義的に考えていく」「ただ、県境の問題でございまするから、何と申しましても、やはり県と県との立場なり、あるいは、そういうものは合理性がないというふうに一般にはいわれるかもしれませんが、やはり県民感情なり、そういったものもやはりこれはないがしろにするわけには参りません」「そういう点で、きわめて困難な問題でございましたので、調停委員も非常に腐心をせられたのでありますけれども、諸般の事情を考慮されました上で、一部の部落について、これはやはり結城市に編入することが妥当ではないかというふうに結論を出されたように承っておる」と答弁している[55]

桑絹村議会と栃木県議会はともに調停案への反対を決め、3月22日に調停案は正式提示されたが、24日に桑絹村議会は受諾拒否を議決した[52]。一方茨城県と結城市はそれぞれ27日に受託を決議した[53]。絹地区北部の分村反対派は、3月28日、絹地区分村反対用水組合大会を開催し、分村絶対反対を宣言するとともに、調停案が撤回されない場合には、南部地区へ通じる用水路をせき止めて水を流さないことを決め、4月2日からは用水せき止めの実力行使に入った。分村派は独自にポンプを設置して用水を確保しようとし、農民にとって死活問題である水利権争いに事態が発展した[56]。5月9日の分村反対住民大会には県の広報車も動員され、県議会総務常任委員らもデモに加わった[57]

自治省のあっせんによる両派の話し合いも試みられたが、互いに自説を譲らず効果は上がらなかった[57]。同年5月11日の参議院地方行政委員会において、安井謙自治大臣は「調停案そのものにそのままこだわっておるというわけのものじゃございません」と答弁しており[58]、5月13日に調停委員が調停の打ち切りを決定したのち、5月20日に自治省から、結城市に編入する区域を南部の3地区(中河原、岸福、台)の全部と1地区(福良橋)の一部(二戸[59])とする、両派の主張の中間をとった政治的性格の強い調停案が提示された[60]。栃木県、桑絹村は受諾の意向を示し、分村反対派も受諾を決めて用水せき止めを解除したが、茨城県、結城市は反対、現地の分村派も反発し、調停案の期日である7月1日の編入は不可能となった[61]。同日、桑絹村は町制を施行、紛争未解決のまま桑絹町となった[61]

分村運動の終結

自治省は分村派に対し、案が受け入れられなければ現状維持であるとの回答を示した[61]。分村派は巻き返しの手段として、9月1日から目的の完遂まで、小中学校における同盟休校戦術を決定した[62]。南部7地区では、梁小学校に273人、桑絹東中学校に152人が通学していたが、このうち約200人が同盟休校に参加した[59]。しかし自主学習場所の確保に難航し、町当局から保護者への罰金付きの登校催告があったこともあり、9月11日に終了した。この頃、編入対象地区の110戸からも編入反対の桑絹町協力同志会が結成され、地区内での結束にも乱れが生じていた[63]

11月に入り、茨城県は調停受諾の方針を固めて結城市と接触したが、結城市では意見対立があり容易に方針が決められなかった[64]。また、市議会に桑絹町の両派住民が押しかけ、バリケードがつくられ、機動隊が出動したこともあった[63]。結局市議会は、12月28日に14議員欠席のまま16議員のみで自治省案の受諾を議決した[65]。しかしこれに先立つ11月10日、桑絹町議会は、当初の編入実施期日から相当経過していること、対象地区に現状維持を望む声が増えていることから、「議決当時とでは著しく情勢が変化している現在において申請前の状態にもどすことが円滑な町の運営、水利、通学等諸条件が地域住民の将来のためであるとも思料される」[66]として、自治省案の受諾取消を議決しており、調停案が受諾されることはなく、分村運動は展望を失った[67]。翌1962年(昭和37年)、10地区全体での会議や自治省への最終打診を経て、3月15日に分村運動は終結した[1][67]。自治省の最終的なあっせん案の撤回は同年12月11日付けで行われ、12月27日には桑絹町において、紛争の解決を祝して「合併振興大会」が開かれた[67]。一方結城市史は「分村合併問題は後味の悪い結末をもって終わることになった」と評している[64]

その後、小山市による広域合併の動きがあり、桑絹町は当初分村問題の処理が終わっておらず具体的な動きは生まれなかったものの、1964年(昭和39年)3月の桑絹町長選挙では、小山市との早期合併を掲げた候補が当選し、翌1965年(昭和40年)2月4日には桑絹町長から小山市へ9月末を目標に合併したいとの正式申し入れがなされ、小山市側も了承した[68]。9月30日、桑絹町は小山市と合併し、現在の小山市桑地区・絹地区となった[69]。下野新聞は「10年越しにわたった実に長い越境合併問題、これがなければ同町(桑絹町)の合併はもっと早期に実現していたことだろう」としている[70]

影響

  • 大量立候補戦術の背景には、当時村長選出馬に際して供託金が必要なかったことが挙げられており、選挙後の1962年(昭和37年)に、売名目的とする候補者を締め出す趣旨で公職選挙法が改正され、町村長選挙においても供託金(2万円)が必要となった[1][52]
  • この選挙から64年後の2024年東京都知事選挙には、過去最多の56人が立候補。候補者乱立の事例として、本選挙が関連して取り上げられた[1]

脚注

参考文献

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