2014年シドニー人質立て籠もり事件
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午前9時44分 – 午後2時20分 (UTC+11)
| 2014年シドニー人質立て籠もり事件 | |
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事件が発生したリンツ・ショコラ・カフェ(2013年) | |
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| 場所 |
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| 座標 | 南緯33度52分05秒 東経151度12分40秒 / 南緯33.86795度 東経151.211048度座標: 南緯33度52分05秒 東経151度12分40秒 / 南緯33.86795度 東経151.211048度 |
| 日付 |
2014年12月15日 午前9時44分 – 午後2時20分 (UTC+11) |
| 攻撃手段 | 銃器による立て籠もり |
| 武器 | ショットガン |
| 死亡者 | 3人(犯人1人・人質2人) |
| 犯人 | マン・ハロン・モニス(当時50歳) |
| 攻撃側人数 | 1人 |
| 対処 | 警察による犯人の射殺 |
2014年シドニー人質立て籠もり事件(2014ねんシドニーひとじちたてこもりじけん、英語: 2014 Sydney hostage crisis)とは、2014年12月15日から16日にかけて、オーストラリア・シドニー中心業務地区(CBD)・マーティン・プレイスで起きた人質立て籠もり事件である。
イラン人のマン・ハロン・モニスがリンツ・ショコラ・カフェに16時間に渡って立て籠もり、客と店員を人質に取った。これに対し警察が12月16日午前2時20分(オーストラリア東部夏時間)に突入し、モニスを射殺した[1][2]。また、突入の際に、人質となっていた2人が死亡した[1][2]。
事件の発生
2014年シドニー人質事件が発生した場所は、シドニー中心業務地区の一角マーティン・プレイス53番地のリンツ・ショコラ・カフェである[3]。マーティン・プレイスの周辺には、オーストラリアの全国放送網であるセブン・ニュースの放送スタジオ、オーストラリアの中央銀行であるオーストラリア準備銀行、オーストラリアの市中四大銀行の一角を占めるオーストラリア・コモンウェルス銀行とウエストパック銀行の本社ビルがある。また、地下には、マーティン・プレイス駅がある。
事件が起きたのは、犯人であるマン・ハロン・モニスが銃を持って、2014年12月15日午前9時44分(オーストラリア東部夏時間)[2]、リンツ・ショコラ・カフェに乱入したことによって始まった。モニスは、リンツ・ショコラ・カフェ内にいた人質を使い、信仰告白の旗(「アッラーフの他に神は無く、ムハンマドはアッラーフの使徒なり」という文言)を窓の外に掲げさせた[4]。この旗を利用したことで、今回の立て籠もり事件は、ISILとの関連があるとの誤報も生じさせた[5][6]。
犯人のモニスは、ひげを生やしており、白いシャツと黒のバンダナを着用していた[7]。青色のスポーツバッグを持ち、ショットガンを携行していた[8][6]。人質の1人は、何回も「人の盾」として、モニスに利用された。立て籠もり事件に先立ち、リンツ・ショコラ・カフェの自動ドアは利用できなくなった[9][10]。
現地のラジオ局のシドニー2GBのアナウンサーであるレイ・ハドレーによると、モニスは、ラジオを通じて、オーストラリア首相に要求を伝えたいと報道した。もっとも、これらの報道は、不確かな情報である[11]。モニスは、また、「シドニー周辺に4つの爆発物を仕掛けた」と声明を発表した。しかしながら、ニューサウスウェールズ州警察のアンドリュー・シピオーネは調査の結果、モニスの言ったような爆発物は発見されなかったと伝えた[12]。
人質の何人かは、メディアを通じて、モニスの要求を伝えようと試みたが、事件当初、ニューサウスウェールズ州警察は、彼の要求を公にすることはできないと伝えた。しかし、彼の要求が公になると、警察はオーストラリア首相と会談し、ISILの旗を彼のもとに届けた[6][13]。
複数の人質の脱出
12月15日午後3時37分、2人の人質が正面入口から脱出した。その直後、1人の従業員と2人の人質がチャンネル7の入口に姿を見せて、脱出に成功した[8][14][15]。午後4時58分には、2人の女性従業員が別の入口から脱出に成功し、保護された[8]。
制圧
日付が変わり、12月16日午前2時8分、5から7人の人質が脱出に成功した[7][16]。2時14分、治安部隊が突入した。残りの人質は、2つのグループに分かれて救出された。1つのグループは、最初の銃撃直後に脱出を試みたグループであり、もう1つのグループは、制圧終了後に救出された[17][18][19]。
突入してまもなく、ニューサウスウェールズ州警察当局は、モニスが射殺されたことを発表した[20][21]。あわせて、2人の人質が銃撃戦で死亡したこと、3人が負傷したことを発表すると同時に、また、この突入により、1人の警察官が顔に銃撃を受け、負傷した[22]。
人質の数は、鎮圧が完了するまで報道されなかった[8][23]。治安当局は、少なくとも13人、多くとも50人が人質となっていると推定していた。制圧完了後に発表された人質の数は17人である[24][25]。
死亡した人質の1人は、このカフェのマネージャーを勤めていたトーリー・ジョンソン(34歳)であり、彼は、モニスから銃を奪おうと格闘した際に、狙撃され、命を落とした。もう1人の犠牲者であるカトリーナ・ドーソン(38歳)は、このカフェを訪れていたバリスター(法廷弁護士)で、救出され病院に搬送される際に、心臓発作で命を落とした[26]。
シドニーの混乱と街の機能の閉鎖
立て籠もり事件が発生すると、リンツ・ショコラ・カフェより上層階にいた人々ははしごで、脱出した[27]。シドニー・オペラ・ハウスは、疑わしい包装物が発見されたことで、閉鎖となった[28][29]。シドニー・アメリカ合衆国領事館は、マーティン・プレイスにあるため、ここからも人々は避難した[30]。
警察は、ハンター通り、ジョージ通り、エリザベス通り、マッコーリー通りの4つの通りが境界線を形成するマーティン・プレイスにいる人々に対して、屋内にとどまり、窓からは離れるように助言をした[31]。コモンウエルス銀行、ウエストパック銀行、オーストラリア・ニュージーランド銀行のシドニー中心業務地区にある視点は、終日閉店となった[18]。また、ニューサウスウェールズ州立図書館も閉鎖された。百貨店デーヴィッド・ジョーンズやニューサウスウェールズ州議会議事堂やニューサウスウェールズ州最高裁判所といった州の機関も閉鎖を余儀なくされた[13]。マーティン・プレイスに本社を構えるセブン・ネットワークは、ニュース番組ザ・モーニング・ショーの放送延期を余儀なくされた[32]。
人質立て籠もり事件のために、シドニーのいくつかの学校では、「ホワイト・レヴェル・ロックアウト」と呼ばれる校庭への立ち入りを禁止する状態に追い込まれた[33]。
人質立て籠もり事件が発生している間は、シティ・サークルを構成するマーティン・プレイス駅の停車は見送られた。トランスポート・ニューサウスウェールズは、人々に対して、シドニー中心業務地区から離れることを助言した。道路も南は、ケーヒル高速道路、ヨーク通り、ハーバー通りを境にこれより北への自動車の流入は禁止となった。北側もケーヒル高速道路への流入が禁止され、すべての自動車がシドニー・ハーバー・トンネルへ誘導された[34]。
犯人像
人質立て籠もり事件を起こしたのは、イラン生まれのマン・ハロン・モニス(1964年-2014年12月16日)である。
モニスは、シーア派の家系に生まれた。生涯のほとんどでシーア派を信仰していたが、人質立て籠もり事件の直前にスンナ派に転向している。モニスの転向は、信仰心よりもむしろ、過激派組織ISILへ共感したことにある。モニス自身は、宗教的指導者を意味する「シェイク」を自称したものの、イスラーム共同体からは宗教的指導者とはみなされていない。モニスは、オーストラリアにおけるスンナ派・シーア派それぞれのイスラーム団体からは疎外されていた。その理由は、彼自身のイスラーム過激原理主義への信仰、個人的な問題、犯罪歴にある。オーストラリア当局は、モニスのイスラーム過激原理主義への信仰と国際テロ組織との関係を確認はしていない[35]。
モニスは、1996年に、オーストラリア政府の政治難民支援プログラムによって、オーストラリアへ移住した[36][37]。しかしながら、2001年、モニスは、元妻の殺害幇助の容疑で逮捕されている。また、オーストラリア政府によるアフガニスタン紛争への介入に反発し、アフガニスタンで犠牲になったオーストラリア兵の遺族に嫌がらせの手紙を送るなどを行い、2012年には有罪判決を受けていた[35]。

