8人の反逆者
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8人の反逆者(はちにんのはんぎゃくしゃ、英語: traitorous eight)とは、1957年にショックレー半導体研究所を離れ、フェアチャイルドセミコンダクターを設立した8人の従業員を指す。ウィリアム・ショックレーは1956年、新たな半導体デバイスの開発・製造を目的として、若手の博士号取得者を招集した。ショックレーはノーベル物理学賞受賞者であり、経験豊富な研究者・教育者でもあったが、管理手法は独裁的で評判が悪かった[注 1]。さらに、彼が推進した研究が成果を上げなかったことも状況を悪化させた[注 2]。ショックレーの交代要求が退けられたのち、8人は自らの会社設立を志して研究所を去った。
ショックレーは彼らの離反を「裏切り」と評した。研究所を去った8人は、ジュリアス・ブランク、ヴィクター・グリニッチ、ジャン・ヘルニ、ユージーン・クライナー、ジェイ・ラスト、ゴードン・ムーア、ロバート・ノイス、シェルドン・ロバーツである。1957年8月、彼らはシャーマン・フェアチャイルドと合意に至り、同年9月18日にフェアチャイルドセミコンダクターを設立した。新設のフェアチャイルドセミコンダクターは、まもなく半導体産業のリーダーへと成長した。1960年にはシリコンバレーのインキュベーターとなり、インテルやAMDを含む数十社の創業に直接または間接に関与した[1]。これら多数のスピンオフ企業は「フェアチルドレン(Fairchildren)」として知られるようになった。

1954年から1955年の冬、トランジスタ発明者の一人でありスタンフォード大学の客員教授でもあったウィリアム・ショックレーは、高性能のトランジスタとショックレーダイオードの量産体制を構築するため、自身の会社を設立することを決意した[2][3]。彼はレイセオン社にスポンサーを見つけたが、同社はこのプロジェクトを1か月で打ち切った[4]。1955年8月、ショックレーはベックマン・インスツルメンツ社のオーナーであり、発明家・実業家としても知られるアーノルド・ベックマンに助言を求めた[2][5]。ベックマンはショックレーと同じカリフォルニア工科大学の卒業生で、1934年にpHメーターを発明した人物である。ショックレーが必要としていた資金は100万ドル(2023年時点の1,100万ドルと同等)であった[4]。ベックマンはショックレーが事業家として成功する可能性は低いと考えたが、その新たな発明が自社にとって有益であり、競合他社に渡すべきではないと判断した[6]。そのため、2年以内に研究成果を量産化することを条件として、研究所の設立および資金提供に同意した[7]。
ベックマン・インスツルメンツ社の新設部門は、ショックレー半導体研究所(Shockley Semi-Conductor Laboratories、当時の慣習でハイフン表記)と命名された[8]。1955年中に、ベックマンとショックレーは契約に署名し[9]、必要な特許ライセンス一切を2万5,000ドルで購入した[10]。カリフォルニア州パロアルト近郊のマウンテンビューに設置場所を定めたが[7]、この立地は新たな人材を惹きつけるには魅力に乏しかった[11]。また、ショックレーの古巣であるベル研究所からは、彼の管理手法が知られていたことも影響し、後述の2人を除いて参加者は集まらなかったという[3]。ショックレーが採用した物理学の博士号取得者は、ウィリアム・W・ハップ(レイセオン社出身)[12]、ジョージ・スムート・ホースリーとレオポルド・B・バルデス(ともにベル研究所出身)、リチャード・ビクター・ジョーンズ(バークレー卒業直後)[13]の4人である。
当時の半導体関連企業や専門家の大多数が東海岸を拠点としていたため、ショックレーは『ニューヨーク・タイムズ』紙と『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙に求人広告を掲載した[14]。ショックレー自身はすでにトランジスタ開発の第一人者として広く認知されており、その管理手法を知らない外部からの人材募集は比較的容易であった[3]。初期の応募者には、ダウ・ケミカルのシェルドン・ロバーツ、フィルコのロバート・ノイス、ベックマン・インスツルメンツ社のインターンであったジェイ・ラストなどがいた[15][16]。新聞広告には約300件の応募があり、ゴードン・ムーアやデビッド・アリソンを含む15人は[17]、アメリカ物理学会の会合においてショックレー自身によって採用された[18]。
採用活動は1956年を通じて継続された。社会技術(のちに彼を優生学へと導くことになる)の支持者であったショックレーは、各候補者に心理検査を受けさせ[19]、そのあとに面接を実施した[5]。
ジュリアス・ブランク、ラスト、ムーア、ノイス、ロバーツは4月から5月にかけて勤務を開始し、ユージーン・クライナー、ヴィクター・グリニッチ、ジャン・ヘルニは夏に加わった[20]。1956年9月までに、研究所の従業員はショックレーを含め32人となった[21]。採用が決まった候補者は、それぞれショックレーと給与交渉を行わなければならなかった。クライナー、ノイス、ロバーツは月給1,000ドルで合意し、経験の浅いラストは675ドルであった。ヘルニは給与に頓着しなかった[21]。ショックレーは自身の給与を2,500ドルに設定し、全従業員の給与を公開した[20]。
| 1956年時点の「8人の反逆者」の学歴と職歴 | ||
|---|---|---|
| 氏名・生年 | 学位・学歴 | 職歴 |
ジュリアス・ブランク 1925年生 | 機械技術者。ニューヨーク市立大学シティ・カレッジで学士号取得(1950年)[22]。 | バブコック・アンド・ウィルコックス社のエンジニア(1950年 - 1952年)[23]。ニュージャージー州カーニーのウェスタン・エレクトリック社で設計技師(1952年 - 1956年)[22]。 |
ヴィクター・グリニッチ 1924年生 | 電子技術者。スタンフォード大学で博士号取得(1953年)[24]。 | SRIインターナショナル社のエンジニア(1953年 - 1956年)。コンピュータやテレビ回路の設計に従事[24]。 |
ジャン・ヘルニ 1924年生 | 物理学者。ジュネーヴ大学(1950年)およびケンブリッジ大学(1952年)で博士号取得[25]。 | カリフォルニア工科大学化学部門の研究員として結晶学と固体物理学を研究(1952年 - 1956年)[25]。『ネイチャー』[26]や『フィジカル・レビュー』[27]に論文を発表。 |
ユージーン・クライナー 1923年生 | 機械技術者。ニューヨーク大学で修士号取得(1950年)[28]。 | 海軍の火砲や産業機械の設計に携わる。ブランクとともにウェスタン・エレクトリック社に勤務し、夜間コースで教鞭も執る[23][28]。 |
ジェイ・ラスト 1929年生 | 物理学者。マサチューセッツ工科大学で博士号取得(1956年)[23]。 | 実務経験なし |
ゴードン・ムーア 1929年生 | 物理化学者。カリフォルニア工科大学で博士号取得(1954年)。 | ジョンズ・ホプキンズ大学で弾道ロケットのガススペクトルを研究[23]。 |
ロバート・ノイス 1927年生 | 物理学者。マサチューセッツ工科大学で博士号取得(1953年)。 | フィルコ社研究員(1953年 - 1956年)。ゲルマニウムトランジスタの研究に従事[29]。 |
シェルドン・ロバーツ 1926年生 | 金属学者。マサチューセッツ工科大学で博士号取得(1952年)[23]。 | 1952年から1956年にかけて、アメリカ海軍調査研究所およびダウ・ケミカル社に勤務。 |
のちの「8人の反逆者」となるメンバーの年齢は26歳(ラスト)から33歳(クライナー)までで、うち6人が博士号を取得していた[30]。ヘルニは経験豊富な科学者であると同時に、優れた経営者でもあり、ボー・ロジェックによれば、その知性はショックレーに匹敵した[31][32]。半導体研究に直接関与していたのはノイスのみで[23]、電子工学の経験があったのはグリニッチだけであった[33]。従業員たちは一部を除き、半導体に関する専門的知識を当初はほとんど持ち合わせていなかったが、それぞれの分野で学位を有する優秀な若手研究者であったため、短期間で半導体技術を習得した。しかし、ショックレーの管理手法は、次第に従業員たちとの間に軋轢を生じさせることとなった[3]。
研究戦略
1956年を通じて、研究所のほとんどのメンバーは装置の組み立てと調整に追われ、「純粋な科学者」であったヘルニとノイスが個別の応用研究を進めた[21]。ショックレーは、自らの科学者たちはあらゆる技術的プロセスをこなせるはずだと信じ、技術スタッフの雇用を拒んだ[34]。研究所の移転後、彼はショックレーダイオードの量産化に向けた微調整に集中し、ノイスが率いる5人の従業員がベックマン・インスツルメンツ向けの電界効果トランジスタの研究を続けた[35]。ショックレーはバイポーラトランジスタの研究を拒否したが、これはのちに戦略的な誤りであったことが証明された。ショックレーダイオードの研究に多大な労力が費やされたにもかかわらず、完成したデバイスは商業的に失敗に終わったからである[36][37]。
ノイスやムーア、さらにはデビッド・ブロックやジョエル・シャーキンによれば、研究の重点がバイポーラトランジスタからショックレーダイオードへと移行したことは予期せぬ事態であった[37][38][39]。ショックレーは当初、拡散型バイポーラトランジスタの量産に取り組む計画だったが、その後ショックレーダイオードに関する「秘密プロジェクト」を立ち上げ、1957年にはバイポーラトランジスタに関するすべての研究を中止した[40][41]。この方針転換の理由は不明である[37]。これにブランク、グリニッチ、ヘルニ、クライナー、ムーア、ロバーツ、ラストらは強い不満を示したとされるが、この時点でノイスは右顧左眄していた。
ベックマンの伝記作家によれば、ショックレーは自身のダイオードを興味深い科学的課題とみなし、ベックマンの商業的利益を顧みることなく選択したとされる[42]。一方、ボー・ロジェックはショックレーの記録文書に基づき、ショックレー研究所がバイポーラトランジスタの研究を行ったことは一度もなく、ショックレーダイオードこそがショックレーとベックマンの当初からの目標であり、そのためにベックマン・インスツルメンツは軍の研究開発契約を受けていたと主張している[43]。また、もしショックレーが信頼性を向上させていれば、ショックレーダイオードは電話事業で広く利用されていた可能性があるとも考えている[36]。
軋轢
歴史家や同僚たちは、ショックレーが経営者・実業家として劣っていた点で概ね一致している[注 1]。彼には幼少期から攻撃的な衝動を示す傾向があり[44]、それは職場の内部規律によってのみ抑制されていた。また、部下の中にさえ競争相手を見出す傾向があった[45]。
1956年11月1日、同年のノーベル物理学賞がショックレー、ジョン・バーディーン、ウォルター・ブラッテンに授与されることが発表された[46]。11月から12月にかけての関連公式行事はショックレーを疲弊させ、研究所が経営上の問題を抱えていた時期に彼を現場から遠ざける結果となった。祝賀ムードとは裏腹に、研究所内の雰囲気は緊張に満ちていた[47]。
ショックレーは精神科医の診断を受けていないが[48]、歴史家たちは1956年から1957年にかけての彼の精神状態をパラノイア的[注 2]、あるいは自閉症的と評している。すべての電話は録音され[49]、スタッフは研究結果を互いに共有することを禁じられたが、全員が小規模な建物内で働いていたため、これは非現実的であった[50]。従業員を信用しなかったショックレーは、彼らの報告書をベル研究所に送付して重ねて検証させた[51]。あるときには、研究所の全員に嘘発見器の検査を受けさせようとしたが、全員が拒否した[28][52]。
1957年1月、技術者のジョーンズがグリニッチやヘルニとの対立を理由に退職したのを発端として、チームから離職者が出始めた。その後、ノイスとムーアは袂を分かち、ムーアが離反者たちを率いたのに対し、ノイスはショックレーを支持し、対立の解決に努めた[53]。ショックレーはそれを評価し、ノイスをグループ内で唯一の支えと見なした[54]。
離反

1957年3月、ショックレーの猜疑心の対象外であったクライナーは、表向きはロサンゼルスでの展示会視察を口実として許可を得て、ニューヨークへ飛んだ。新会社設立のための投資家を探す目的であり、市内在住の両親も彼を支援した[55]。この動きには、ブランク、グリニッチ、ラスト、ロバーツ、ヘルニ、そしてムーアが賛同した[56]。ヘイデン・ストーン商会のアーサー・ロックとアルフレッド・コイルは、ノーベル賞受賞者の下で学んだ者は必ず成功すると確信し、この提案に関心を示した[55]。
最終手段として、1957年5月29日、ムーアを中心とするグループはアーノルド・ベックマンに最後通牒を提示した。「ショックレー問題」を解決しなければ会社を辞すというものであった。ムーアは、ショックレーには大学教授の職を斡旋し、研究所には専門の経営者を後任に据えることを提案した[53][57]。しかし、ベックマンはショックレーがなお状況を改善し得ると信じ、これを拒否した。彼はのちにこの決断を後悔することになる[58]。
1957年6月、ベックマンはついにショックレーとチームの間に管理者を置いたが、その時点ですでに7人の中核的な従業員は離反の決意を固めていた[3][53]。土壇場でノイスも彼らに加わった。ロバーツがノイスを説得し、「カリフォルニア・グループ」(フェアチャイルド社との契約書における彼らの自称)による会合に出席させたのである[59]。会合はサンフランシスコのクリフト・ホテルで開かれ、ロックとコイルも同席した[29]。この10人が新会社の中核となった。
儀礼を好む血色の良いアイルランド系のコイルは、真新しい1ドル紙幣を10枚取り出し、テーブルに丁寧に並べた。「我々一人ひとりが、すべての紙幣に署名すべきだ」と彼は言った。署名で埋め尽くされたこの1ドル紙幣が、相互の契約書になるのだと彼は説明した。[60]
投資家探しは難航した[29]。当時のアメリカのエレクトロニクス産業は東海岸に集中していたが、カリフォルニア・グループはパロアルト近辺に留まることを望んでいた[56]。1957年8月、ロックとコイルは、発明家であり実業家でもあるシャーマン・フェアチャイルド(フェアチャイルド・エアクラフトおよびフェアチャイルド・カメラの創業者)に面会した[3][61][62]。フェアチャイルドはロックを副社長のリチャード・ホジソンに引き合わせた。ホジソンは自らの評判を危険にさらしながらもこの提案を受け入れ、数週間で事務手続きをすべて完了させた[29][63]。新会社フェアチャイルドセミコンダクターの資本は1,325株に分割された。「8人の反逆者」の各メンバーが100株、ヘイデン・ストーン商会が225株を取得し、300株は準備金として留保された。フェアチャイルド社は138万ドルの融資を提供した[64]。この融資を担保するため、「8人の反逆者」は自らの株式の議決権をフェアチャイルド社に付与し、同社が株式を総額300万ドルの固定価格で買い取る権利も与えられた[65][66]。
1957年9月18日、ブランク、グリニッチ、クライナー、ラスト、ムーア、ノイス、ロバーツ、ヘルニの8人はショックレー研究所に辞表を提出した[29]。彼らは「8人の反逆者(traitorous eight)」として知られるようになるが、誰がこの呼称を生み出したのかは定かではない[22][67]。ショックレーはこの離反の理由を最後まで理解できなかった[68]。彼はこの日以降ノイスと言葉を交わすことはなかったが[64]、「8人」の動向については引き続き注視していた[69]。また、彼らが残した記録を精査し、重要なアイデアがあればショックレー研究所の知的財産として特許を出願した[69](厳密には、米国法に基づき、これらの特許は発明した各従業員の名で発行された)。
1960年、ショックレーは新たなチームの助けを得て[70]、自身のダイオードの量産化にこぎ着けた。しかし、すでに時機を逸しており、競合他社は集積回路の開発に近づいていた[71][72]。ベックマンは不採算となっていたショックレー研究所をクリーブランドの投資家に売却した。1961年7月23日、ショックレーは自動車事故で重傷を負い[73]、回復後に会社を去ってスタンフォード大学での教職に復帰した[74]。1969年[75]、ショックレー研究所の新たな所有者となったIT&T社は、同所をフロリダへ移転しようとした。従業員が移転を拒否したため、研究所は消滅した[76]。
分裂

我々は皆、最初の製品である二重拡散シリコンメサトランジスタを製造するという唯一の目標に集中していた……我々は皆とても若く(27歳から32歳)、学校を出てからまだ数年しか経っていなかった。我々は非常に気の合う仲間で、勤務時間外も多くの時間をともに過ごした。創業者たちのほとんどは結婚しており、フェアチャイルドの設立に時間と労力を注ぎ込む傍ら、家庭を築き、幼い子どもたちを育てるのに忙しかった……なんと素晴らしい時代であり、革新的な機会に満ちていたことかと、私は驚嘆する。—ジェイ・T・ラスト、2010年、[77]
1957年11月、「8人組」はグリニッチのガレージから[78]、パロアルトとマウンテンビューの境界にある空の新社屋へ移転した[79]。彼らの初任給は年俸13,800ドルから15,600ドルであった[71]。取締役会を率いていたホジソンは、ノイスを会社の実務責任者として提案したが、ノイスはこれを拒否した[80]。フェアチャイルド自身もノイスの性格を知っていたため、彼がリーダーになることに反対した[81]。フェアチャイルドの意向とは無関係に、それぞれ研究と製造を担当していたノイスとムーアが「同輩中のリーダー」となった[82]。
グループは直ちに、ベル研究所とショックレー研究所の成果を活用し、二重拡散法と化学エッチングを用いた製造法による、デジタル機器向けのシリコン拡散メサトランジスタ群を生産するという明確な目標を掲げた[33]。ムーア、ヘルニ、ラストが3つのチームを率い、それぞれ代替となる3つの技術に取り組んだ[83][84]。ムーアの技術はn-p-nトランジスタの歩留まりを向上させ、1958年7月から9月にかけて量産体制に入った[85][86]。一方、ヘルニのp-n-pトランジスタの投入は1959年初頭まで遅れた[87]。これがフェアチャイルド社内におけるムーアとヘルニの対立を生むこととなる。ムーアはヘルニの貢献を十分に評価しなかったとされ、ヘルニは自身の仕事が不当に扱われたと受け止めた[85]。しかし、ムーアのトランジスタはフェアチャイルドセミコンダクターの名声を確立し、数年間にわたり競合他社に対して優位な地位を築いた[85]。
1958年、フェアチャイルドのメサトランジスタはミニットマンI誘導コンピュータD-17Bへの採用が検討されたが、軍の信頼性基準を満たさなかった[88]。フェアチャイルドにはすでに、ヘルニが1957年12月1日に提案していたプレーナー技術という代替案が存在していた。1958年春、ヘルニとラストは夜を徹して最初のプレーナートランジスタの実験に取り組んだ[89]。プレーナー技術はのちに、トランジスタの発明に次ぐマイクロエレクトロニクス史上第2の画期であると評価されるに至ったが、1959年当時はほとんど注目されなかった[90]。フェアチャイルドがメサ形からプレーナー技術への移行を公式に発表したのは1960年10月である[91]。しかし、ムーアはこの技術的成果をヘルニ個人の功績とは認めず、1996年には無名のフェアチャイルド技術者たちの貢献によるものだと述べている[31]。
一方で、フェアチャイルドセミコンダクターの親会社経営を担っていたジョン・カーターは、半導体事業で得られた利益の再投資を限定的に行い、他事業の買収に重点を置いていたとされる。また、シャーマン・フェアチャイルドも従業員へのストックオプション付与には消極的であったため、創業メンバーを含む従業員の間で不満が醸成していった。
1959年、シャーマン・フェアチャイルドは「8人の反逆者」の保有株式を買い取る権利を行使した。ジェイ・ラストは2007年の回想で、この出来事があまりにも早期に行われたため、かつてのパートナー関係が雇用関係へと変質し、チーム精神を損なったと述べている[92]。1960年11月には、フェアチャイルドのマーケティング担当副社長であったトム・ベイが、ラストの集積回路開発プロジェクトを資金の浪費であると批判し、その中止を求めた。ムーアはラストを支援せず、ノイスもこの問題についての協議を避けた[93]。この対立が決定的となり、1961年1月31日、ラストとヘルニはフェアチャイルドを去り、テレダインのマイクロエレクトロニクス部門であるアメルコの経営を担うことになった。数週間後にはクライナーとロバーツもこれに合流した。一方、ブランク、グリニッチ、ムーア、ノイスはフェアチャイルドに残留した。かくして「8人の反逆者」は、4人ずつの2つのグループに分かれることとなった。
遺産

1960年から1965年にかけて、フェアチャイルド社は技術面でも売上面でも半導体市場において議論の余地のないリーダーであった[94]。しかし、1965年初頭に経営問題の最初の兆候が現れた[95]。同年11月、集積オペアンプの開発者であるボブ・ワイドラーとデビッド・タルバートがナショナル・セミコンダクターに移籍し[96]、1967年2月にはノイスと意見を異にする5人のトップマネージャーが彼らに続いた[97]。ノイスは株主との間で訴訟に発展し、事実上、経営の第一線から身を引くこととなった[95]。1967年7月、同社は赤字に転落し、市場でのトップの座をテキサス・インスツルメンツに明け渡した[97]。
1968年3月、ムーアとノイスはフェアチャイルド社を去ることを決意し、9年前と同様にアーサー・ロックに支援を求めた。そして同年夏、彼らはNMエレクトロニクス社を設立した[98][99]。ブランク、グリニッチ、クライナー、ラスト、ヘルニ、ロバーツは過去の対立を乗り越え、ムーアとノイスの新会社を資金面で支援した[100]。1年後、NMエレクトロニクスはホテルチェーンのインテルコ社から商号使用権を買い取り、社名をインテルに変更した。ムーアは1997年にインテルの名誉会長に就任するまで、同社で上級職を歴任した。ノイスは1987年にインテルを離れ、非営利コンソーシアムのセマテックを率いたが、1990年に急逝し、「8人の反逆者」の中で最初の故人となった。
グリニッチは1968年にフェアチャイルド社を退社後、短期間の休養を経て[101]カリフォルニア大学バークレー校やスタンフォード大学で教鞭を執り、集積回路に関する初の包括的教科書を出版した[102]。その後、産業用RFIDタグを開発する複数の企業を共同設立し、経営に携わった[103]。
ブランクは「8人の反逆者」の中で最後にフェアチャイルド社を去り、1969年に退社した。革新的スタートアップを対象とする金融会社Xicor社を設立し、2004年に5億2,900万ドルで売却した[22]。
ヘルニは1963年の夏までアメルコ社のトップを務め、テレダイン社のオーナーとの対立後、3年間ユニオン・カーバイド・エレクトロニクス社を率いた[104]。1967年7月、時計会社Société Suisse pour l'Industrie Horlogère(スウォッチ・グループの前身)の支援を受け、カスタムCMOS回路市場を創出したインターシル社を設立した[105][106]。インターシルが1969年から1970年にかけてセイコー向けに開発した回路は、日本の電子時計の発展に寄与した[107][108]。インテルが当初、米国内市場のみでコンピュータ用の限定的なテンプレート回路を販売していたのに対し、インターシルは低消費電力のカスタムCMOS回路に特化して世界的に販売していたため、両社は競合関係にはなかった[32]。
ラストはアメルコ社に残り、テレダイン社で12年間にわたり技術担当副社長を務めた。1982年には美術書を専門とするヒルクレスト・プレス社を設立した[92][109]。
ロバーツはアメルコ社を去ったあと、自身の事業を経営し、1973年から1987年までレンセラー工科大学の理事を務めた[110]。アメルコ社は度重なる合併、買収、社名変更を経て、マイクロチップ・テクノロジー社の子会社となった。
1972年、クライナーはヒューレット・パッカード出身のトム・パーキンスとともに、ベンチャーキャピタルファンドのクライナー・パーキンス・コーフィールド・アンド・バイヤーズを設立した。同社はAmazon.com、コンパック、ジェネンテック、インテュイット、ロータス、マクロメディア、ネットスケープ、サン・マイクロシステムズ、シマンテックなど、数多くの企業の設立や資金調達に関与した。クライナーはのちに、自身の目標はベンチャー投資の地理的拡大であったと記している[111]。
受賞
2011年5月、カリフォルニア歴史協会は「カリフォルニアの伝説賞」を8人に授与した。サンフランシスコで開催された授賞式には、ブランク、ラスト、ムーア、そしてロバーツの息子であるデイヴが出席した[112][113]。
フェアチルドレン
シリコンバレーに関する研究、報道、あるいは通俗的な伝承において、「フェアチルドレン(Fairchildren)」という語は、以下のような意味で用いられる。
- フェアチャイルドセミコンダクターの元従業員が設立したスピンオフ企業[114][115]。この用法は、歴史家レスリー・バーリンが2001年のレビュー論文[109]や博士論文[116]、ロバート・ノイスの伝記を通じて普及させたものである[117]。
- そのようなスピンオフ企業の創業者たち。これは最も初期の用法であり、たとえば1978年のBBC『ホライゾン』のドキュメンタリー「Now the Chips Are Down」[118]や、トム・ウルフによる1983年のノイスの人物評[119]、1999年のシリコンバレーに関する約5,000語の特集記事などに見られる[120]。
- フェアチャイルドセミコンダクターの元従業員全般。1988年の『ニューヨーク・タイムズ』の記事でこの用法が確認される[121]。
- フェアチャイルドセミコンダクターの創業者たち(一般には「8人の反逆者」として知られる)。この用法はPBSのウェブサイト[122]や、ブラシらによる著作で用いられている[123]。
フェアチャイルドが極めて多くのスピンオフを生んだ親会社であると指摘した最初期の記事の一つは、1969年の『イノベーション・マガジン』に掲載された[124]。AMD、インテル、インターシル、そして再編されたナショナル・セミコンダクターといったスピンオフ企業は、1940年代から1950年代にかけて設立された東海岸やカリフォルニアの既存の電子機器企業とは一線を画していた。ベックマンやヴァリアン・アソシエイツのような「古参のカリフォルニア企業」はウォール街を信頼せず、何十年にもわたって自社の支配権を維持した。これに対し、1960年代の新興企業は、3年から5年という短期間での株式公開を前提に設立された。創業者たちは、投資銀行の期待に応えることを基本戦略として事業を構築した[125]。また、シリコンバレーのもう一つの特徴は、経営者や専門職の社員が企業間を活発に移動することであった[126]。ノイスの影響もあり、シリコンバレーには旧来の企業の階層的な文化を公然と否定する風土が育まれた[127]。人々は会社や業界ではなく、個人同士に忠誠を誓い合った。フェアチャイルドの「卒業生」たちは、エレクトロニクス関連企業のみならず、金融や広報といった分野にも進出した[128]。