Su-17 (航空機・初代)

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Su-17 «R» / Су-17 «Р»

Su-17 «R»

Su-17 «R»

Su-17(スホーイ17、スホイ17;ロシア語:Су-17スー・スィムナーッツァチ)または«R»(«Р»エール)は、ソビエト連邦スホーイ設計局で開発された実験機である。超音速機の研究機として設計されたが、戦闘機にすることも視野に入れていた。試作機は完成したものの、設計の不備からTsAGI(航空流体力学研究所)からの飛行許可が下りないまま開発は頓挫した。

スホーイ設計局では、来る超音速機時代に向けたケーススタディとして、マッハ1前後の遷音速域の研究を目的とした製品«R»と称した実験機を計画していた[1][2]。1947年末に開かれた閣僚会議で向こう2年間の航空機計画が決められた際、«R»はマッハ1前後の速度域(高亜音速・遷音速・低超音速)を研究する高速実験機と位置付けられ、2機分(実機および地上試験用の機材)の予算が承認された[3][4]。この実験機の成否如何によっては前線戦闘機(戦術戦闘機)の基礎設計に活用することも考慮された[5]。当時、ソビエト連邦では政府予算の削減によって多くの航空機計画が中止となり、設計局が閉鎖されたりしていたが、スホーイ設計局の«R»はヤコヴレフ設計局Yak-1000とともに、この時期において開発が承認された数少ない実験用航空機だった[3]

«R»の開発は1948年6月より着手された。«R»は単発単座、全金属製の後退翼機で、海面高度でマッハ1.022を目指していた。同年7月上旬にコンスタンチン・ヴェルシーニン英語版航空元帥が提示した速度要求値は高度10,000 mでマッハ1というものだった[6]

«R»の主翼は下反角5度の中翼配置で[6]、後退角は50度とこの時期の後退翼機としてはかなり大きな角度をもっていた[7]。主翼上面には境界層分離板が各3ヶ所設置された(2ヶ所は主翼全面、1ヶ所は前縁からファウラー式の補助翼手前まで)[5]。尾翼は十字尾翼で、水平尾翼の後退角は50度(地上で+15度の範囲で調整可能)。左舷補助翼と右舷昇降舵にタブを装備[5]。胴体下部にはベントラルフィンがある[7]

エンジンはTR-3英語版 軸流式ターボエンジン1基 (推力 4,600 kg)[6]。機首のエアインテークから流入した空気は内部で分岐して操縦席の両側を通り、胴体後部のエンジンに供給される[5]。エンジンは胴体後部の2/3を占めており[2]、整備のため胴体後部を分離できるようになっていた[6]

アビオニクスはRSIU-3 (РСИУ-3VHF通信機、RPKO-10 (РПКО-10無線方向探知機、RV-2(РВ-2 )電波高度計IFFトランスポンダ「バーリィ(Барий)」を搭載する[8]。固定武装としてN-37 37mm機関砲2門(各40発)を胴体内に搭載し、機首エアインテーク上部に測距用レーダーのSRD-1 (СРД-1)を、エアインテーク下部にガンカメラを装備した[9](これらはあくまで前線戦闘機として発展させるためにスペースが確保されたものであり、試作1号機には機関砲は搭載されなかった)[7]

«R»の機首構造(赤は燃料タンク)。操縦席と燃料タンクの間に引かれた2本のラインが機首の分離切断部。

«R»の操縦席は機首のかなり先端に配置されていたが、これは緊急脱出時に胴体から機首を分離させる機構が備わっていたためである[7]。これは当時の射出座席が高速域に対応できなかったため、そのような状態でも安全にパイロットを脱出させるために考案されたものであった[6]。分離は機体の垂直加速度が18Gを超えるか、パイロットの任意によって実行でき、下部接合部のコルダイト火薬の点火によって操縦席後部および前脚収容部より前が分離される[5]。分離後はパラシュートが展開され、減速後にパイロットは射出されるが、その際に受ける加速度は最大5Gまでに抑えられる計算だった[5]。なお、射出座席は単独でも使用可能であり、低速域では通常の射出手順で脱出することもできた[6]

«R»の設計作業は1948年11月初旬に完了し、空軍飛行研究所(NII VVS)から承認された[9]。12月にはモックアップ審査にも合格し、試作機の製作に進んだ[7]1949年に入ると、ソ連空軍は前線戦闘機として採用することを念頭に、«R»に対してSu-17の機種名を割り当てた[3][7]

Su-17試作1号機は1949年7月に完成し、機体はM・M・グロモフ記念航空研究所英語版(LII)の試験飛行場(現・ジュコーフスキー空港)に運び込まれた[10]。そこではまず高速タキシング試験が実施され、セルゲイ・ニコラエヴィチ・アノーヒン英語版による滑走テストが9月4日から10月8日まで実施された[9]。地上テストは順調に進み、Su-17は初飛行を待つのみとなっていたが、TsAGI(航空流体力学研究所)は同機に飛行許可を出さなかった[10]。これは同年6月の試験飛行中にフラッター現象を引き起こして墜落したSu-15 «P»が関係していた。Su-15 «P»の墜落はスホーイの設計に責任があると断じたTsAGIは、1本桁の主翼を持つSu-17もまたねじれ剛性が不足し、高速域でフラッター現象を引き起こすと主張した[5]

主翼の補強を行うため、Su-17は一旦設計局に戻されることになった[10]。だが、ヨシフ・スターリンが11月1日にスホーイ設計局の閉鎖を命じたことにより、作業は全て中断された。Su-15やSu-17の失敗が設計局閉鎖の遠因とされている[2]パーヴェル・ジガーレフ英語版空軍総司令官はSu-17をTR-3のテストベッドとして飛行させることを提案したが、当局からの反応はなかった[9]。放棄された機体はLIIに戻され、脱出システムの地上試験に使用された後、航空機関砲の射撃標的にされて破壊された[10][11]。地上機材用の2号機は30%まで作業が進捗していたところで放棄された[9]

Su-17 «R»(左)とS-1(右)

閉鎖されたスホーイ設計局はスターリンの死後に再興されるが[12]、再興後に最初に試作したS-1С-1)はSu-17の全体構成を継承していた[9]。60度の後退角を持つS-1はSu-17と比べてかなり強いテーパーが加えられ、水平尾翼も十字尾翼を改めて主翼とほぼ同じ高さに下げるなど、閉鎖から再興までの4年間で蓄積された超音速機設計の知識はS-1に着実に反映されていた[1]

S-1はSu-7として制式採用され、パーヴェル・スホーイはその功績として1957年社会主義労働英雄の称号を授与された[13]

スペック

出典:「スホーイ ジェット戦闘機の系譜 (2)」46頁[9]

  • 全長:15.25 m
  • 全幅:9.6 m
  • 全高:4.52 m
  • 翼面積:27.5 m2
  • 空虚重量:6,240 kg
  • 離陸重量:7,390 kg
  • 最大速度(予定値): 1,252 km/h (マッハ1.022)
  • 実用上昇限度(予定値): 15,500 m
  • エンジン:リューリカ TR-3英語版 ターボジェットエンジン (推力 4,600 kg) ×1
  • 航続距離(予定値):750 km
  • 武装:N-37 37 mm機関砲×2

脚注

参考文献

関連項目

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