U230 (潜水艦)
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| U-230 | |
|---|---|
| 基本情報 | |
| 建造所 | ゲルマニア造船所、キール |
| 運用者 |
|
| 艦種 | 潜水艦 |
| 級名 | UボートVIIC型 |
| 艦歴 | |
| 発注 | 1940年12月7日 |
| 起工 | 1941年11月25日 |
| 進水 | 1942年9月10日 |
| 就役 | 1942年10月24日 |
| 最期 | 1944年8月21日に自沈[1] |
| 要目 | |
| 基準排水量 | 769t |
| 水中排水量 | 871t |
| 全長 | 67.1m(耐圧殻50.5m) |
| 最大幅 | 6.2m(耐圧殻4.7m) |
| 吃水 | 4.74m |
| 高さ | 9.6m |
| 主機 | ディーゼルエンジン2基 |
| 電源 | 電動モーター |
| 電力 | 750PS |
| 出力 | 2800 - 3200PS |
| 推進 | 2軸 |
| 速力 | 水上17.7ノット、水中7.6ノット |
| 航続距離 | 8500海里(水上10ノット)、80海里(潜航4ノット) |
| 潜航深度 | 230m、圧壊深度250 - 295m |
| 乗員 | 将校4名、士官40~56名 |
| 兵装 |
533mm魚雷発射管(前方4門、後方1門)、魚雷14またはTMA機雷26 8.8 cm SK C/35 艦載砲 1門 2cmC/30対空火器 |

U-230は第二次世界大戦中に活動するためにドイツ海軍(Kriegsmarine)で建造されたVIIC型Uボートである。
U-230は1941年11月25日にキールのクルップ造船所で建造番号660として起工され、9月10日に進水し、1942年10月24日にパウル・ズィークマン大尉の指揮下で就役した。最初の3回の哨戒時の先任哨戒士官ヘルベルト・ヴェルナーは戦後ベストセラーとなった回顧録『Iron Coffins』(邦題:『鉄の棺: Uボート死闘の記録』)の著者である。U-230は3回の哨戒を行い、地中海に移動する前に3つのウルフパックに参加した。1944年8月21日、U-230は連合国軍がフランスのトゥーロン付近に上陸した時、乗組員の手によって自沈した[1]。
第1哨戒
1943年2月4日、キールを出港してU-230は初めての出撃を開始し、2月9日にベルゲンに到着した。2月11日にU-230はベルゲンを出港し[2]、ニューファンドランド島の西でブルクグラーフ部隊と共に哨戒を行った[3]。
ヴェルナーは著書でU-230が遭遇した悪天候と荒れた海について「天候は極めて悪く、艦橋の見張りはゴム製の潜水服とアイマスクの着用を余儀なくされた。彼らは縦横に激しく揺れるUボートに鉄製のベルトでの固定を余儀なくされた。下もひどい状況で、乗組員はあちこちに投げ飛ばされていた。」と記述している[4][5]
ブルクグラーフ部隊の戦果はなく3月5日に解散し、U-230らはヴェストマルク部隊の中心を形成した[6]。
3月6日、U-230はヴェストマルク部隊に加わった。同日、U-405はゆっくり東へ向かう59隻の船から成るSC121船団と触接した[7]。夜、U-230はU-591と共に船団と交戦し、貨物船エジプシャンを撃沈した[8][9]。次の3日間、ヴェストマルク部隊は触接を続け、合計8隻の船を撃沈したが、ズィークマンとU-230はそれ以上の戦果を出せなかった。3月10日、BdU(Uボート艦隊司令官) (de:Befehlshaber der Unterseeboote) [10]は攻撃を中止した[11]。
3月11日、ヴェストマルク部隊は解散してU-230は基地へ帰還し、3月31日にブレストに到着した[2]。
第2哨戒
1943年4月24日、U-230は第2哨戒を開始した。当初はU-456が随伴していた。ビスケー湾を安全に通り抜けた後、U-230は北アフリカの連合軍に物資を補給するため南へ向かう船団を攻撃するよう命じられていた12隻のUボートから成るドロッセル部隊に加わった[12]。ドロッセル部隊は5月3日に24から27隻の「はしけ」(実際は大型上陸用舟艇)と西アフリカに向けて南へ向かう11隻の船から成る2つの輸送船団を報告した空軍のコンドルによる偵察飛行の支援を受けていた[13]。大失敗に終わったLCTへの攻撃では戦果はなく、2隻のUボートが衝突により喪失し、数日後の夜には別の2隻が2度目の衝突で損傷を受けた[13]。
5月6日、U-607は西アフリカから北へ向かうSL128船団を目撃し、残りのドロッセル部隊のUボートは迎撃に向かった。その夜、U-89により1隻の船が沈没し、U-456が反撃により損傷した。U-230の戦果はなかったが、ズィークマンは5月7日にBdUが作戦を中止するまで船団の追跡を続けた[14]。
残りのドロッセル部隊のUボートはその後、北大西洋の部隊を支援するため北西へ移動するよう指令を受けた[14]。5月9日、ドロッセル部隊のUボート5隻はHX 237船団と触接していたライン、エルベ部隊に加わり、3日間にわたり船団を攻撃した。この攻撃で3隻の船を撃沈し、Uボート3隻が破壊された(壊滅的な損害率)が、U-230の成果はなかった[15]。5月12日、航空攻撃を受けていたU-230はソードフィッシュを撃墜した[16][17]。ヴェルナーは『Iron Coffins』で、自身の攻撃で撃墜したと報告している[18]。
その後、U-230は基地に帰還した。これは哨戒を完遂して帰還したドロッセル部隊のわずか4隻のうちの1隻である[19]。
チェサピーク湾
1943年7月5日、U-230はアメリカ東岸のチェサピーク湾に機雷を敷設する任務のためU-566と共にブレストを出港した[20]
月末に到着したU-230は7月26日から27日にかけての夜にTMC機雷を8個チェサピーク湾の入り口に敷設した[21]。数日後、U-566は付近にTMB機雷を12個敷設した[22]。どちらの機雷原でも船は沈没しなかった[23]。大西洋を横断して帰還する途中、U-566はアメリカ哨戒艇プリマスを撃沈して90名以上の乗組員を死亡させ、第10艦隊による大規模な対潜作戦を引き起こした。Uボートは2隻とも探知されることなく脱出した[23]。
この作戦の支援として、2隻のUボートは海上でドイツ海軍のXIV型補給潜水艦から燃料を補給される予定であったが、7月だけでも集中攻撃によって4隻(10隻のうち)が破壊されたことで、遠洋でのUボート作戦はひどく混乱した[24]。
7月24日、補給潜水艦U-459はボルドーを出港した2日後に破壊された[25][26]。7月30日、そのうち2隻はXIV型の3隻のUボートがイギリス空軍機とF・J・ウォーカー率いる第2支援グループの船から攻撃を受けて破壊された[27][28]。8月4日、U-489がアイスランドの南で沈没した[29][30]。これにより補給潜水艦U-117とU-847は北米から帰還するUボートの補給に配置転換された。8月7日、U-117が破壊され[31][32]、U-230らは危険な海峡に取り残された。8月24日、ヘルベルト・クピッシュ大尉が指揮するU-847がU-172を含むUボートに燃料を補給した。U-172の艦長はクピッシュが航空攻撃の脅威を軽視しすぎていることに気付いており、この指摘はヴェルナーの著書でも繰り返されている。
ヴェルナーは彼が「あなたたちはどうしたんだ、航空機に何の注意も払っていないのか?」と尋ねていたと話している。
クピッシュは「我々はグリーンランドを通過してから1機も見ていない」と答えた[33][34]。
8月27日の朝、U-230含むUボート6隻はU-847から補給を受けたが、わずか数時間後、U-847は護衛空母カードからの航空機によって沈没した[35][36]。
U-634と共に航海中、U-230はビスケー湾に近づいた時に北へ向かうSL135船団と遭遇した。U-634のダルハウスは攻撃を試みたが、攻撃の前に彼自身が攻撃を受けU-634は2隻の護衛船に破壊された[35][37]。U-230は探知されることなく脱出した[35]。そして1943年9月8日にブレストに帰還した[20]。
地中海
1943年11月、U-230はトゥーロンの第29潜水隊群に配置されるため、地中海に再配属された。11月22日、U-230はブレストを出港して12月5日にジブラルタル海峡に到着し[38]、ヴェルナーは厳重に防御された海峡の通過では特に事件はなかったと報告している。彼はまたU-230の水中聴音機がイルカの遊ぶ音や「互いに話す」音を拾っていたと記述している[39]。12月16日、U-230はトゥーロンに到着した。この時にヴェルナーは転属のためU-230から去った。
1944年1月19日、U-230は連合軍によるアンツィオ上陸作戦であるシングル作戦に参加する連合軍の輸送船団に対する哨戒のためトゥーロンを出港した[40]。この作戦中、2月16日と20日にU-230は戦車揚陸艦2隻を撃沈した[41]。U-230は反撃を逃れ、2月24日にラ・スペツィアの基地に帰還した。
1944年4月、U-230は4月11日にティレニア海で他の哨戒を行うために出港する前、一時トゥーロンに帰還した。5月9日、U-230は沿岸で船団を護衛していたアメリカ哨戒艇PC-558と遭遇して撃沈した[8]。U-230は再び脱出し、5月21日にラ・スペツィアに帰還した[40]。
6月末、U-230はトゥーロンに帰還し、そこでズィークマンは艦長を辞職してハインツ=オイゲン・エーバーバッハ中尉に引き継いだ[16][Note 1]。
7月と8月上旬のトゥーロンとサラミスへの空襲により、地中海に残っていた11隻のUボートは無用となった。8月6日に5隻がトゥーロンで大破し、U-230含むほかの3隻は連合軍による南フランス上陸作戦であるドラグーン作戦後の捕獲を避けて自沈した[42]。
1944年8月17日、エーバーバッハは最後の航海を行い、U-230をトゥーロン泊地に着底させた後、8月21日に自沈させた[43][44]。
乗組員はトロール漁船の捕獲に成功し、当初はイタリアに向かっていたが、その後イタリアの戦況についての知らせを受けてスペインに向かい、強制収容所に送ることに決めた。1944年8月27日、駆逐艦エリクソンのレーダーが漁船を感知した。エリクソンは調査を命じられ、エンジンが故障して損傷し、50名のドイツ兵が乗船しているトロール漁船を発見した。U-230の乗組員は捕虜となった。漁船は曳航された。