アブー・バクル・スーリー

From Wikipedia, the free encyclopedia

アブー・バクル・スーリーAbū Bakr al-Ṣūlī)は、10世紀アッバース朝の数代にわたるカリフに仕えた文人[1]。詩文とチェスの達人であった[1]。非常な多作家であり、中期アッバース朝カリフを間近で目撃していたため、当時の宮廷に関する情報の一次史料としてよく引用される[1]。詩の収集家でもあり、古典期のアラビア語文学における地位は高い[1]

はっきりとした生年月日は不明だが、スーリーが自著において、ヒジュラ暦277年(西暦890年又は891年)にバスラで修辞学者のイブン・アビー・ターヒル・タイフュール英語版の講義に参加したと述べていることから逆算して、生年はその20年前ごろ、つまり西暦870年ごろと推測されている[1]。スーリーはバグダードの名門の家系に生まれた[1]

スーリーの名前により彼の父系リネージを確認すると、まず本人の名前は「ムハンマド」、ナサブは「イブン・ヤフヤー・イブン・アッバース・イブン・ムハンマド・イブン・スール」という(Muḥammad b. Yaḥyā b. al-ʿAbbās b. Muḥammad b. Ṣūl[1]。高祖父が「トルコ人スール」の名で知られており、ムスリム勢力がジュルジャーンを征服した際(8世紀)にそのあたりの有力者だった人物である[1]。「トルコ人スール」の子孫は以後、代々、アッバース家と深く関わっていく[1]。ムハンマド・イブン・スール(曽祖父)はアッバース家の革命運動のかなり早い段階から、ハーシミーヤ運動ダァワに加わっていた可能性が高い[1]アブルアッバース(サッファーフ)がカリフに登位した際にマウスィル及びアーザルバーイジャーンの知事に任命されている[1]。スールの子孫の中には、その他にも、初期アッバース朝期に重要ポストに就いた者が何人もいる[1][a]

しかしながらスーリー自身は一度も、統治に関わる職に就くことはなかった[1]。主にカリフあるいはその子弟たちのナディーム(御伽衆)や教育係として王権に関わったが、それは安定した地位でもなければ定収入を見込めるものでもなかった[1]。最初に宮廷入りしたのはカリフ・ムクタフィーのときである[1]。チェスの腕前が見事であることが認められたことがきっかけだったが、豊富な教養の持ち主でもあると認められるのに長い時間はかからなかった[1]。カリフ・ムクタディルによりカリフの二人の息子の教育を任せられた[1]

ムクタディルの息子の一人、ムハンマドはのちのカリフ・ラーディー(在位934年から940年)である[2]。ラーディーは自身が才能ある詩人でありスーリーを慕っていたため、カリフに登位したときには宮廷における特別な地位をスーリーに与えた[1][2]。ラーディーは940年12月に32歳(太陽暦換算)で亡くなった[2]。次代のカリフ・ムッタキーは文学・教養を好まず御伽衆を遠ざけたため、スーリーは新たな活動圏を探さなければならなかった[1]

そこでスーリーはワースィトへ行った[1]。ワースィトではのちに大アミールになるバジュカム英語版が、鷹揚にスーリーを歓迎した[1]。このあたりの経緯は、スーリー自身の著作の記述に拠る[1]。その後、ムスタクフィーの時代にスーリーはもう一度カリフ宮廷に出仕しようとしたがうまくいかなかった[1]。さらに悪いことにアリー家への共感あるいは同情を示したことを咎められ追及されることになった[1]。スーリーはバスラに引退し、ヒジュラ暦335年のラマダーン月(ユリウス暦947年3月31から4月29日)に同地で亡くなった[1][b]

チェス

a b c d e f g h
8 a8 b8 c8 d8 e8 f8 g8 h8 8
7 a7 b7 c7 d7 e7 f7 g7 h7 7
6 a6 b6 c6 d6 e6 f6 g6 h6 6
5 a5 b5 c5 d5 e5 f5 g5 h5 5
4 a4 b4 c4 d4 e4 f4 g4 h4 4
3 a3 b3 c3 d3 e3 f3 g3 h3 3
2 a2 b2 c2 d2 e2 f2 g2 h2 2
1 a1 b1 c1 d1 e1 f1 g1 h1 1
a b c d e f g h
盤面図1. 黒先攻で白が勝つにはどのように動かすか?[3]「スーリーのひし形」と呼ばれる難問[3]。クイーンの駒は斜め4方向に1マスしか動けない[3][4]

スーリーはチェス(アラビア語やペルシャ語では「シャトランジ」という)の名人であった[3][4]。ムクタフィーは非常にチェスを好んだカリフであり、宮廷にマーワルディーという名の棋士を指南役として招いていたほどだったが、ある時、従者からマーワルディーがバグダードに住む無名の者にチェスで負けたと聞き及び、報告が信じられなかったので御前試合をさせた[3]。905年のことで、その無名の棋士こそスーリーであった[3]。御前試合に勝ったスーリーは特別な尊敬を受けたという[3]イブン・ハッリカーン(13世紀)によると2,3世紀あとの時代でも名棋士としてのスーリーは名高く、チェスの発明者であるとの俗説もはびこっていた[3][4][5]

10世紀当時、チェスは、ヘルメス神[5]、ないし闇の神霊の発明であるとも想像されていた[3]。詩人はチェスを闘争や運命の比喩や神秘主義の象徴として捉えることもあった[6]。当時の中・上流階級、知識層におけるチェス熱は高く、スーリーのようにチェスが栄達の道を開くこともあった[4]。多少腕が落ちても地方でチェスの腕前を披露することにより食べていくことができた[4]

チェスに関する本の最初期のものは、棋士が個人的な試合の結果を憶えておくための棋譜集の意味合いが強い[4]。9世紀にアドリー英語版とラーズィーというライバル関係にあった名棋士がそれぞれチェス指南書を著したのに続き、10世紀のスーリーも、Kitāb al-Shiṭranj直訳:チェスの本)という指南書を書いた[4]。同書の中でスーリーはチェスの定跡について書いた[3][4]。同書はチェスの歴史上初めて定跡に関する言及がある文献である[3]

12世紀の写本で、「盤面図1」に示す試合の最終局面について書かれたものがある[3]。写本によれば、この局面で白が勝つための手順をスーリーが見つけたとのことである[3]。この盤面は「スーリーのひし形」と呼ばれ、長い間、解決法が見つかっていなかった[3]

文学

註釈

典拠

Related Articles

Wikiwand AI