アメリカ原産であり日本には生息していないとされるが、昭和期には我が国で採集されたという報告がいくつか存在する。最初の報告は山形の赤山で採集されたものであり、日本鱗翅学会の連絡誌『やどりが』に掲載された前田邦夫の論文(1971)に詳しい[12]。
1934年6月19日、山形県南村山郡上山町(現上山市)の赤山(標高310m)で、1人の昆虫少年が色が褪せたコヒオドシを採集した。この少年は後に山形県衛生研究所の細菌血清科科長を務めるなど我が国の細菌学の発展に貢献した小野精美である。同じ昆虫青年であった白畑孝太郎は、小野の家を訪れ生きた蝶を観察しその戦果を祝った。彼はコヒオドシがまだいるに違いないと思い、再び周辺の山に入って採集計画を企てるも、当時の勤務が忙しく、また当時戦時中であったため、その混乱により何年も採集することはできなかった。
戦後、酒田市に移り住んだ白畑はロッキー産のアメリカコヒオドシの標本を入手した。彼はこのコヒオドシの斑紋が、小野少年が採集した個体と一致していることに気づき驚愕した。コヒオドシの前翅には通常2つの黒斑が存在するが、アメリカコヒオドシはそれを欠いており、前翅内半は一様な竭色を呈している。この個体が現在確認できる唯一の標本である[13]。
日本産のコヒオドシ(Aglais urticae)は北海道(亜種小名connexa)および日本アルプス周辺(亜種小名esakii)に生息し山形ではほとんど見られない。この採集記録について前田は3つの仮説を立てている。1つめはアメリカに分布している個体が何らかの理由で飛来した、あるいは蛹および成虫がアメリカからの物資によって越冬中に運ばれた、または誰かが飼育していた個体が逸走し、偶然採集できたとする考えであり、2つ目は、日本産のコヒオドシの迷蝶もしくは山形県産の個体群かつ異常型とする考え、3つ目は日本にもアメリカコヒオドシの別亜種もしくはそのものか、あるいは未記載の新種がそこに生息していたとする考えである。また彼はこの中でアメリカコヒオドシにミチノクコヒオドシという異称を名付けている[12]。
蝶の研究で知られた昆虫学者の白水隆は、この蝶が東北地方に土着するコヒオドシの一亜種であるという見解を示し、1962年に出版した『原色日本蝶類幼虫大図鑑2』には「東北地方の一部(岩手県下)に産する」 という記述がみられる[12]。また1983年に出版された福田晴夫の著書『原色日本蝶類生態図鑑2』にはアメリカコヒオドシの異称としてヤンキーコヒオドシの名がみられる[14]。
東北のコヒオドシに関する情報を集めていた会員の伊勢利希は、1970年、有志の連絡誌に『秋田県の幻の蝶一その1ーコヒオドシ』と題した見聞を発表した。以下はその記述であるが、信憑性は定かではない[12]。
1965年の7月、当時高校生であった奥民人が友人と栗駒山でコヒオドシを採集した。帰宅後図鑑で調べたところ前翅の黒帯が図鑑の写真と異なっていることに気づいたが特に気にしなかったという。卒業時に母校の科学教室に寄贈したものの、その後火災により標本は失われたという。
1955年頃、大久保という人物が友人と秋田駒ケ岳でコヒオドシらしき蝶を3頭採集した。通常のコヒオドシと前翅の模様が異なっていたが、特に驚きはしなかった。これは伊勢が秋田県在住の佐々木明夫会員から聞かれた話で、大久保という人物は佐々木が在学当時から知っていた人物だという。これらの標本も現在消息不明である。
秋田駒ケ岳山頂付近で採集した話、八幡平山腹で目撃した話、十和田湖の湖畔で写真に撮られた話などが存在するが、いずれも信憑性には欠ける。
アメリカコヒオドシと思わしき蝶が採集されたのは人里離れた山中であり、人為的に移入されたということは考えにくい。また北米から日本に飛来するには風向が逆であり、そもそもアメリカコヒオドシにこのような長距離の渡りをする能力があるとは言えず、北米からの迷蝶であるとも考えづらい。そのため第3の仮説である、遥か昔からそこに存在していたという説が最も有力であり、前田もこれを支持している。会員の黒沢良彦は、東北地方にアメリカコヒオドシまたはこれに類似した種類が実在したと仮定した場合、このような種類が日本に侵入した経路は次のようであったと推定している[13]。
- 中新世の後期にアンガラ大陸(シベリア大陸) に生じたAglais属の祖型が、次の鮮新世にアルプス造山運動によって分化し、暖地に生き残った個体群が共通祖先になってヒマラヤの南斜面に追いやられ、北方に残ったものは寒冷地に適応した個体群の祖型となって東北北方に分布を拡げた。 この個体群は現在のアメリカコヒオドシに近縁であったと考えられる。その後東西に二分し、西のものは中国亜種chinensisの祖型になり中国西部からチベットにかけての地域を占め、東のものはアメリカコヒオドシの祖型となって極東から北米にかけての広い地域を占めたと推定される。日本のアメリカコヒオドシが局所的に分布するのに対し北米には広範囲に分布しているのは、日本では後に侵入してきたコヒオドシとの競合に敗れたからで、北米にはそのような競合種がいなかっため分布域が拡大したからであると考えられる。
論文の考察として前田は「東北地方のかなり広い範囲にわたって、A.urticae connexaとは異なるある種の「コヒオドシ」が棲息している、と考えるのが最も自然ではないだろうか。白水博士も、伊勢氏も、そしてこの話題を編集部に御教示下さった黒沢良彦博士および尾本恵市氏も棲息説をとっておられる。そしてまた記者もこれを信ぜざるを得ない。」という見解を示している[12]。
1968年9月10日、会員の加藤和彦が吾妻山自布高湯付近でコヒオドシと思われる蝶を採集した。この個体の標本は日本産コヒオドシの斑紋パターンを表現しており、アメリカコヒオドシではないという結論に至っている[13]。
2006年に出版された白水の蝶類図鑑『日本産蝶類標準図鑑』には、本種の名前のみリストに記載されており、採集記録に関する記述は見られないが、コヒオドシの説明文に「東北地方(岩手・秋田・山形)の山地でもきわめてまれに採集されるが、この地域で採れるものには本州中部あるいは北海道産のものとは斑紋の異なる」と書かれている[15]。現在では日本におけるアメリカコヒオドシの記録は見られず、かつての記録は誤報とされているが、現在でも謎めいたUMA蝶として再発見を期待している者もいる。