アメリカ合衆国とベトナムの関係
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アメリカ合衆国とベトナムの関係(あめりかがっしゅうこくとべとなむのかんけい)は、アメリカ合衆国とベトナムの間における国際関係である。両国の関係は1787年頃に始まり、当時、アメリカ合衆国の対仏公使であったトマス・ジェファーソンは、パリで阮福景(カイン太子)と会見している。これは、ジェファーソンがコーチシナ産の陸稲の品種に関心を持っていたためであった[1]。
第二次世界大戦中、アメリカ合衆国はフランス領インドシナにおいて、日本軍と戦うベトミンを秘密裏に支援したが、正式な同盟関係が結ばれることはなかった。1954年にフランス領インドシナが解体されると、アメリカ合衆国は共産主義の北ベトナムに対抗して反共主義の南ベトナムを支持し、ベトナム戦争では北ベトナムと直接戦闘を行った。1973年のアメリカ軍撤退と1975年の南ベトナム崩壊後、アメリカ合衆国は貿易禁輸措置を実施し、ベトナムとの国交を断絶した。これは主に、ベトナム難民(ボートピープル)問題や、戦争捕虜・行方不明者問題への懸念によるものであった。
関係正常化の試みは長年実を結ばなかったが、1990年代にビル・クリントン大統領の下で外交関係の正常化が進められた。1994年、アメリカ合衆国は30年に及ぶ対ベトナム貿易禁輸を解除したが、その他の制裁はなお残されていた[2]。貿易自体は再開されたものの、ベトナムからアメリカ合衆国への輸出品には40%から80%に及ぶ高関税が課されるなど、正常な条件ではなかった[2]。翌年、両国は大使館および領事館を設置し、21世紀に入って以降も関係改善は継続している。
ベトナムは、南シナ海における中国との領有権問題という地政学的背景の中で、アメリカ合衆国との関係強化を進めてきた[3][4][5]。一方で、中国とアメリカ合衆国の間でバランスを保つ外交姿勢も維持している[6][7]。ベトナム国民は、他の共産主義国と比べてアメリカ合衆国に対して好意的な見方を持っているとされる[8][9][10][11][12]。1995年の国交正常化以降、歴代のアメリカ合衆国大統領は全員少なくとも一度はベトナムを訪問しており、これはアジア重視政策の中でのベトナムの重要性を示すものとされている。これらの訪問は、政治的な相違が存在するにもかかわらず、ベトナム国民から歓迎されてきた[13][14][15][16]。
ベトナム系アメリカ人は210万人以上にのぼり、その大半はベトナム戦争後にアメリカ合衆国へ移住した移民である。彼らは、世界に居住するベトナム系住民全体のおよそ半数を占めている[17]。
ベトナム戦争

1954年のジュネーヴ会議において、フランス領インドシナは解体され、北ベトナム、南ベトナム、カンボジア、ラオスという独立国家に再編された。冷戦下において、ベトナムは二つの対立する国家に分断され、アメリカ合衆国の理念に反対する共産主義国家である北ベトナムと、共産主義の封じ込めを支持するアメリカ合衆国の地政学的立場に概ね沿った反共主義国家である南ベトナムが成立した。両国は北緯17度線を境に分断されており、これは朝鮮戦争において北朝鮮と韓国を分けた北緯38度線になぞらえられることが多い。
ジュネーヴ会議では、1956年7月までにベトナム統一のための総選挙を実施することが定められたが、この合意は分割そのものに反対していたベトナム国およびアメリカ合衆国のいずれからも正式には受け入れられなかった。1955年7月、南ベトナムの指導者であったゴ・ディン・ジエムは、共産主義勢力による選挙操作への懸念を理由に、選挙の実施を拒否することを表明した。
アメリカ合衆国は、第一次インドシナ戦争においてフランスを支援していたのに続き、南ベトナムを支持した。アメリカ合衆国は南ベトナム共和国軍の訓練と支援のために軍事顧問団を派遣し、国家の近代化を目的として莫大な資金を投入したが、これにより北ベトナムとの緊張は高まっていった。緊張は1964年のトンキン湾事件を契機に決定的な段階に達した。この事件では、アメリカ合衆国がベトナム人民海軍によるUSSマドックスおよび他のアメリカ海軍艦艇への二度にわたる攻撃を主張した。
最初の事件ではUSSマドックスの損害は軽微であり、ベトナム側に死者4名、負傷者6名の計10名の死傷者が出たとされる。一方、二度目の事件については論争があり、2000年代に入って実際には発生していなかったことが示された[18]。しかし当時、アメリカ合衆国大統領リンドン・B・ジョンソンは両事件を報復措置の正当化に用い、アメリカ合衆国議会は速やかにトンキン湾決議を可決し、ベトナムへのアメリカ軍派遣を承認した。

トンキン湾事件を契機として、アメリカ合衆国は第二次インドシナ戦争に本格的に介入した。この戦争は西側諸国では一般に「ベトナム戦争」として知られている。約11年間にわたり、アメリカ合衆国、南ベトナムおよびその同盟国は、北ベトナム、南ベトナム解放民族戦線、およびその同盟勢力と戦った。アメリカ合衆国と南ベトナムは制空権、近接航空支援、ならびに中央情報局主導の諜報活動を活用したのに対し、北ベトナムとベトコンは主としてゲリラ戦を展開したが、戦争の進行とともにその戦術は次第に正規戦に近づいていった。
戦争の規模は極めて大きく、1966年までに北ベトナムおよびベトコンは約69万人の兵力を有し、1972年までに南ベトナムは約150万人の兵力を動員した。アメリカ合衆国は介入期間を通じて延べ約270万人の兵士を派遣し、1969年4月には54万3,000人に達した。アメリカ合衆国は、インフラ整備、軍および警察組織の訓練、国家の近代化を目的として、南ベトナムに対し約1,400億ドルを直接支出した[19]。
戦争による人的被害と破壊は甚大であり、戦闘員と非戦闘員を合わせて[20]、130万人から340万人が死亡したと推定されている。この戦争はアメリカ社会を大きく分断し、カウンターカルチャー運動および公民権運動の最盛期と重なっていた。ベトナム戦争へのアメリカの関与に対する反対運動は、これらの社会運動と関連しつつも、それ自体が大規模かつ重要な運動として展開された。ベトナムに対するアメリカ国内の見方や評価は政治的立場によって大きく異なり、アメリカ合衆国政府内部においても、戦争支持派と反戦派の間で深刻な対立が生じていた。

アメリカ合衆国にとって、ベトナム戦争は冷戦下における政治的イデオロギーの対立を背景とする紛争であった。アメリカ合衆国は表向きには自由、自己決定、主権の擁護を目的として介入したとされたが、これらの原則が重視されたのは、共産主義が主要な要因である場合に限られていたとされる。北ベトナムは中華人民共和国およびソビエト連邦と関係を有する共産主義国家であり、さらにクメール・ルージュやパテート・ラーオといったインドシナ地域の共産主義組織から支援を受けていた。この状況は、共産主義が世界的かつ一体的な勢力であるという認識を強める要因となった。北ベトナムを打倒することで、共産主義の「専制と侵略」を封じ込め、インドシナの安全保障を維持し、南部主導による統一ベトナムを地域における反共の防波堤とする構想が、アメリカ合衆国側には存在していたとされる。

一方、北ベトナムにとって、アメリカ合衆国との戦争は、より大きな独立闘争の延長にすぎないものであった。北ベトナムの認識では、アメリカ合衆国はフランスに代わって、新たに立ちはだかる大国の植民地主義的障害となった存在であり、北部主導によるベトナム再統一、ならびにインドシナにおける共産主義とポストコロニアル国家の台頭を阻む勢力とみなされていた。
1969年、ベトナム戦争がアメリカ合衆国内で次第に不人気となる中、アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは「ベトナム化」政策を実施した。これは、アメリカ軍が戦闘任務から撤退し、情報、支援、兵站に限定した関与へ移行することで、南ベトナムが自立して戦争を遂行できる体制を構築することを目的としたものである。1972年までにアメリカ軍は大部分が撤退し、作戦は航空支援、砲兵支援、顧問派遣、物資供与に限定された。
1973年1月27日、パリ和平協定がアメリカ合衆国、北ベトナム、南ベトナム、およびベトコンの代表によって署名された。協定は停戦、全アメリカ軍の撤退、南部における北ベトナム軍の現状維持、ならびに「平和的手段」による将来的なベトナム再統一を規定していた。しかし、1973年3月に最後のアメリカ戦闘部隊が撤退し[21]、同年のケース=チャーチ修正条項によりインドシナへの軍事支援が事実上制限されると[22]、北ベトナムが南ベトナムの防衛線を突破するのを防ぐ有効な手段は失われ、協定は実効性を欠く結果となった。
1973年から1975年にかけて、北ベトナムと南ベトナムの戦闘はさらに2年間続いた。アメリカの支援に依存していた南ベトナムは、十分な財政支援を欠き、兵士への給与支払いや補給に支障を来した結果、北ベトナム軍に対して人的・領土的に深刻な損失を被った。1975年3月、北ベトナムの将軍ヴォー・グエン・ザップは、アメリカの意思を試す目的でヴァン・ティエン・ズン将軍にブオンマトートへの攻撃を命じた。アメリカ合衆国議会が南ベトナム支援を阻止すると、北ベトナムは全面侵攻を開始し、4月下旬までに南ベトナムの首都サイゴンを包囲した。
アメリカ合衆国はフリークエント・ウィンド作戦を発動し、アメリカ海軍の第76任務部隊を派遣して、北ベトナム軍による都市制圧前にサイゴンからの避難を実施した。当初は在サイゴンのアメリカ大使館職員の避難を目的としていたが、最終的には南ベトナムの民間人および軍人も受け入れられ、避難便への搭乗や自家用機による脱出が行われた。艦載機の運用上、使用されていない航空機が空母から投棄される事例も発生した。同作戦では、ヘリコプターによりアメリカ人1,373人、ベトナム人および第三国国民5,595人が避難したほか、作戦による避難や自力避難を通じて[23]、最終的に13万8,869人のベトナム人が難民としてアメリカ合衆国の管理下に入った[24]。
その後まもなく、北ベトナム軍はサイゴンを占領し、北ベトナムの決定的勝利によってベトナム戦争は終結した。これにより、ベトナムは統一され、現在のベトナム社会主義共和国が成立した。サイゴンはホーチミン市と改称されたが、ベトナムの首都は引き続きハノイに置かれている。
脚注
- ↑ Phạm Xanh [1999]. "Những cuộc tiếp xúc Việt – Mỹ đầu tiên dưới triều Nguyễn nửa đầu thế kỷ XIX. Tạp chí Nghiên cứu Lịch sử số tháng 6 năm 1999.
- 1 2 U.S.-Vietnam Trade Relations: Hearing Before the Subcommittee on Trade of the Committee on Ways and Means, House of Representatives, One Hundred Fifth Congress, Second Session, June 18, 1998. Washington, D.C.: U.S. Government Printing Office. (2000). p. 127. ISBN 978-0-16-060406-5. https://books.google.com/books?id=N0j2FfG3CkIC&dq=1994+trade+embargo+lifted+vietnam&pg=PA127
- ↑ “US, Vietnam ties have never been better”. Asia Times. (2020年7月13日). https://asiatimes.com/2020/07/us-vietnam-ties-have-never-been-better/ 2021年3月24日閲覧。
- ↑ “Will We See a US-Vietnam Strategic Partnership?”. The Diplomat (2020年7月15日). 2021年3月24日閲覧。
- ↑ “Lo scacchiere del Sud-Est asiatico” [Southeast Asia chessboard] (Italian). Limesonline.com (2021年3月19日). 2021年3月24日閲覧。
- ↑ “Why Vietnam Will Not Balance Against China” (英語). thediplomat.com. 2025年12月16日閲覧。
- ↑ Rim, Sokvy. “Great power rivalry: Why Vietnam is not taking sides” (英語). ThinkChina - Big Reads, Opinions & Columns on China. 2025年12月16日閲覧。
- ↑ “Opinion of the United States”. Pew Research Center (2017年). 2021年3月24日閲覧。
- ↑ Old Enemies Become Friends: U.S. and Vietnam Brookings Institution
- ↑ Despite All, Vietnam Still Likes Americans New York Times
- ↑ Not Your Father's Vietnam
- ↑ Opinion of the United States - Vietnam Pew Research Center
- ↑ Sanger, David E. (2000年11月18日). “CLINTON IN VIETNAM: THE OVERVIEW; Huge Crowd in Hanoi for Clinton, Who Speaks of 'Shared Suffering'”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2000/11/18/world/clinton-vietnam-overview-huge-crowd-hanoi-for-clinton-who-speaks-shared.html
- ↑ “President Bush Concludes Vietnam Visit”. NPR.org (2006年11月19日). Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ↑ “Obama's Visit to Vietnam: A Turning Point?”. Template:Cite webの呼び出しエラー:引数 accessdate は必須です。
- ↑ Beech, Hannah (2017年11月10日). “In Danang, Vietnam, Trump Makes a Friendlier American Landing”. The New York Times. https://www.nytimes.com/2017/11/09/world/asia/trump-apec-danang-vietnam-china.html
- ↑ Wieder, Rosalie. "Vietnamese American". In Reference Library of Asian America, vol I, edited by Susan Gall and Irene Natividad, 165-173. Detroit: Gale Research Inc., 1996.
- ↑ “Film: The Fog of War: Transcript”. Errol Morris. 2021年6月28日閲覧。 “McNamara: "It was just confusion, and events afterwards showed that our judgment that we'd been attacked that day was wrong. It didn't happen. And the judgment that we'd been attacked on August 2nd was right. We had been, although that was disputed at the time. So we were right once and wrong once. Ultimately, President Johnson authorized bombing in response to what he thought had been the second attack ? It hadn't occurred but that's irrelevant to the point I'm making here. He authorized the attack on the assumption it had occurred..."”
- ↑ Rohn, Alan (2014年1月22日). “How Much Did The Vietnam War Cost?”. The Vietnam War. 2022年12月29日閲覧。
- ↑ “No Way to Win: The Vietnam War and the Tragedy of Containment”. chnm.gmu.edu. 2013年11月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2018年6月27日閲覧。
- ↑ “U.S. withdraws from Vietnam - Mar 29, 1973 - HISTORY.com”. HISTORY.com. https://www.history.com/this-day-in-history/u-s-withdraws-from-vietnam 2018年6月27日閲覧。
- ↑ “The logistic supply of Viet Cong and North Vietnamese forces in South Vietnam”. www.cia.gov. 2024年7月11日閲覧。
- ↑ Drury, Bob; Clavin, Tom (3 May 2011). Last Men Out: The True Story of America's Heroic Final Hours in Vietnam. Simon and Schuster. p. 258. ISBN 978-1-4516-1025-3
- ↑ Thompson, Larry (2009). Refugee Workers in the Indochinese Exodus: 1975–1982. MacFarland & Co.. ISBN 9780786445295
外部リンク
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