米緬関係
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1948年にミャンマーが「ビルマ連邦」として独立する前の米緬関係は希薄なものだった。
1790年代初頭、インドに寄港したアメリカ船の一部がミャンマーにも寄港し、チーク材を輸入していた。アメリカの石油会社はミャンマー進出を企てていたが、その目的は果たせず。1879年には、退任後、世界一周旅行に出かけたユリシーズ・グラント元大統領が訪緬した[1]。また、のちにアメリカ大統領となるハーバート・フーヴァーは、1904年から10年間、ミャンマー北部のボードウィン鉱山で、銀、鉛、亜鉛の採掘に関わり、かなりの成功を収めたとされる。1927年にはコカ・コーラがミャンマーに進出した[2][3]。

この時期のミャンマーとアメリカの関わりで特筆すべきものは、バプティスト教会によるキリスト教の布教である。1812年、アメリカ人のバプティスト派宣教師・アドニラム・ジャドソンが来緬。当初はヤンゴンでビルマ族とモン族相手に布教活動を行っていたが、芳しい成果は得られず[注釈 1][4]。1824年~1826年の第一次英緬戦争の間一時中断した後、タニンダーリ地方域のアムハースト(現在のチャイクカミ)に拠点を移し、ビルマ族の奴隷だったタビューというカレン族男性をキリスト教に改宗させ、彼を使ってカレン族相手に布教活動を開始。結果、エーヤワディーデルタ地帯に住む、スゴー・カレン族の間で爆発的にキリスト教が広まり、カレン族の10~20%をキリスト教徒が占めるにいたった[5][6][7]。
バプティスト教会は教育活動にも力を入れ、モーラミャインの神学校を頂点とする教育制度を整え、第一次世界大戦までに全国で708校の学校を運営し、1920年には彼らが設立したジャドソン大学が既存の国立大学と合併してヤンゴン大学が設立された。英植民地時代、比較的教育水準の高いスゴー・カレン族は、軍人、警察官、鉄道員、公務員、看護師に採用されて社会の中枢をなし、のちにカレン族の独立運動の指導者となった。ただ、バプティスト教会の布教活動は、多数派ビルマ族よりも少数民族に焦点を当てたため、新たな文化的分断を生じさえ、国民意識の構築を困難にしたとも評される[8][6]。

第二次世界大戦では、ミャンマーは、日本軍と対峙していた中国国民党への補給地として重要だった。アメリカ軍は、クレア・リー・シェンノート率いるフライング・タイガースはヤンゴンに拠点を置き、ジョセフ・スティルウェルはミャンマー戦線でアメリカ軍と中国国民党軍の指揮を任された。連合軍は1942年に一旦インドに逃れたが、1944年から反撃を開始。アメリカ軍は主にカチン族約1万人からなる第101分遣隊というゲリラ部隊も含まれていた。このような経験からアメリカはミャンマーの少数民族に好意的で、ビルマ族には懐疑的だった。フランクリン・ルーズベルト大統領は1942年4月にチャーチルに宛てた親書の中で「ビルマ族を一度も好きになったことはない」と記した[9]。
議会制民主主義時代
反共の防波堤

1948年1月4日、ビルマ連邦として独立したミャンマーは、ウー・ヌ首相の下、非同盟・中立外交を志向していた。その精神は、1948年5月、国内の左翼勢力の統一を目指して策定された「左翼統一計画」に示されている[10]。
- 近隣諸国をはじめ、世界中のすべての国々との友好関係を維持する。
- ビルマの従属化につながるいかなる外国援助も拒否する。
- 冷戦の二大勢力圏(アメリカ、ソ連)、あるいはインドや中国との連携を避ける。
一方、冷戦下のアメリカ[注釈 2]にとって、ミャンマーは東南アジアにおける反共の防波堤として、ベトナムに次いで重要な地位を占めていた。アメリカは、ウー・ヌ首相が時に共産主義に親和的な態度を見せていたので、その真意を測りかねていたが、ヌの容共姿勢がビルマ共産党(CPB)の反乱を鎮圧するための方便だと確信すると、ヌの反ファスト人民自由連盟(AFPFL)政府を支援した。同じく反乱を起こしたカレン民族同盟(KNU)には同情的だったが、彼らを支援することもなかった[11]。
一方、イギリスがAFPFL政府へ兵器提供・資金提供していたのとは対照的に[注釈 3]、アメリカは、AFPFL政府からの兵器提供の要請を一旦拒否した。KNUの反乱軍は強力であり、自治権を有するカレン族国家の樹立を認めることこそが、唯一の解決策だと考えていたからである。在緬アメリカ人およびイギリス人宣教師たちは、AFPFL政府とKNUを結束させてCPBに対抗することを望んでいた[12]。
しかし、国共内戦を制した中国共産党主導で1949年10月1日中華人民共和国が成立すると、情勢は変わった。同年12月、ミャンマーは非共産圏では最初に中国を公式に承認したが[注釈 4]、これはミャンマーが中国に親近感を抱いていたためではなく、むしろその敵意を回避するためだった。しかし、アメリカはミャンマーが中国に取り込まれることに危機感を抱き、1950年3月5日、相互防衛援助協定を締結、ミャンマー軍(以下、国軍)に巡視艇10隻とカタリナ機を提供した[13]。その後もアメリカは、迫撃砲(特に105mm榴弾砲)、ロケットランチャー、トランシーバーその他の通信機器を国軍に提供し、1956年にはミャンマー空軍にセスナ18010機を、その後数年間でヘリコプターも数機提供した。1958年にはミャンマー海軍にPGM沿岸警備艇6隻を提供した[14]。また、アメリカは国軍将校に対する軍事訓練も実施し、1948年から1962年までに1,227人の国軍将校がアメリカで訓練を受けた。これは、アメリカ国外で訓練を受けた1,852人の国軍将校の66.3%に当たる[15]。アメリカは、不安定で、時に容共的な態度を見せるAFPFL政府より、明確に反共的な国軍のほうを信用していた[16]。
ビルマの外科医

しかし、両国の間に火種が一つ持ち上がった。ゴードン・S・シーグレイブは、ミャンマーに移住したアメリカ人バプティスト派宣教師の4代目で、1897年ヤンゴンに生まれ。1921年にジョンズ・ホプキンス大学で医学博士号を取得した後、ミャンマーに帰国してシャン州ナムカムで病院を設立し、妻とともに患者の治療に当たっていた。ミャンマー語、カレン語、英語の3か国語を話し、『ビルマの外科医(Burma Surgeon)』など6冊の著書があり、のちにケネディ大統領から特別表彰を受け、「ビルマのシュバイツァー」と呼ばれていた[17]。
彼は反共主義者で、カレン族には同情的だったが、その彼が、1949年にカチン族独立運動の英雄ノーセン[注釈 5]率いるカレン民族防衛機構(KNDO)がナムカムの病院を占拠した際、シーグレイブがKNDOに兵器と医薬品を供給したとして、1950年8月15日、AFPFL政府は大逆罪の容疑でシーグレイブを逮捕起訴した。アメリカ本国ではシーグレイブの釈放運動が巻き起こり、駐緬アメリカ大使館はシーグレイブに弁護士を付け[注釈 6]、健康悪化を理由にシーグレイブの釈放をAFPFL政府に要求した。AFPFLはその要求は拒否したものの、シーグレイブを刑務所から監視付きの郊外の住宅へ移動させた[18]。1951年1月17日、シーグレイブは大逆罪幇助罪で懲役6年の刑に処せられたが、その後減刑され、同年3月9日に釈放。さらにシーグレイブは控訴し、10月31日完全無罪を勝ち取って、12月にナムカムの病院に戻り、1965年に亡くなるまでそこで過ごした[19]。
この問題は米緬関係に波紋を投げかけたが、裁判は公正に行われ、両国の責任者は問題解決のために、柔軟に対応したため、両国関係を損ねることはなかった。
AFPFLは1954年から1957年までの3年間、シーグレイブの病院のために年間1万4,000ドルの資金援助を行った[20]。
アメリカの中国国民党支援

むしろ米緬関係を著しく悪化させたのは、ミャンマーに逃れてきた中国国民党軍(泰緬孤軍)の問題だった。
1950年1月、国共内戦に敗れた中国国民党軍の兵士約200人が、国境を越えてシャン州に侵入し、ケントン(現チャイントン)から北に約80㎞の小さな市場町・モンヤン周辺の丘陵地帯に陣取った。その後、部隊はタチレクに進軍したが、そこで国軍の反撃に遭って西へ撤退し、モンサッという村にたどり着いた。何もない寒村だったが、大戦中に連合国軍が建設した小さな飛行場があった。彼らの目的は、雲南省に再侵入して中国共産党から中国を奪還することだった[21]。
折しも1950年6月に朝鮮戦争が始まり、中国が北朝鮮を、アメリカが韓国を支援しており、朝鮮半島と雲南省から中国を挟み撃ちにすることを目論んで、1950年末までにアメリカは非公式にシャン州の国民党軍の支援を決定した[注釈 7]。作戦は「ペーパー作戦[22]」と名づけられ、CIA、大戦中蒋介石を支援していた退役軍人、右派政治家などのチャイナ・ロビー親台派が作戦に関与し、1951年2月からモンサッの空港には、台北、沖縄、バンコクから飛んできた飛行機が、アメリカからの援助物資や兵員を届け[注釈 8]、1953年末までに国民党軍の兵力は 1万2,000人にも達し[注釈 9]、国軍はその兵力の80%を国民党軍に当てていた[23][24]。
ミャンマー当局は早くからアメリカの関与の情報を入手し、駐緬アメリカ大使に抗議したが、彼らは政府から作戦について知らされておらず[注釈 10]、蒋介石もアメリカの度重なる撤退要請を拒否した。埒が明かなかったAFPFL政府は、1953年3月25日、国際連合に「ビルマ連邦による中華民国の侵略行為に関する申し立て」を提出、4月23日、国連総会はほぼ全会一致で(ミャンマーと台湾は棄権)、ミャンマーにおける「外国軍」を非難し、「武装解除した抑留に同意するか、ミャンマー連邦からただちに離脱しなければならない」と宣言する決議を採択した。アメリカも賛成票を投じた[25]。そして、同年11月から国民党軍の撤退が始まり、当初は老人、障害者、女性、子供ばかりで、兵器もほとんど引き渡されなかったが、アメリカの圧力もあり、1954年5月中旬までに約5,500人の戦闘員を含む6,900人が撤退した。しかし、それでもなおシャン州に最大4,000人、ビルマ南部に3,000人が国民党軍兵士が残存し、彼らは資金作りのためにケシ栽培・アヘン取引に手を染め、やがてこの地域は「黄金の三角地帯」と呼ばれる一大麻薬生産地となった[26]。
その後もアメリカの関与疑惑は燻り続け[注釈 11]、国軍と国民党軍との間で時折戦闘が発生した。1960年末から1961年初頭にかけて、国軍・中国人民解放軍合同で「メコン川作戦」を発動し、国民党軍を泰緬国境地帯に放逐したが、その際、国民党軍の基地から大量のアメリカ製兵器と弾薬が発見された[27]。また、ミャンマー空軍の戦闘機が国民党軍へ物資輸送していたB-24機を撃墜したが、この際、空軍の戦闘機もタイ領土内に墜落しパイロットが死亡。その後、件のB-24機がアメリカが台湾に提供したものだったことが発覚し、ミャンマー国民は激怒した。1961年2月21日午後、ヤンゴンのアメリカ大使館はバス21台分の抗議者に包囲され、アンクル・サム像が燃やされ、大使館の窓に石や煉瓦が投げつけられた。大使館の警備に当たっていた150人の警官が、催涙ガス、消火ホース、発煙弾で応戦したが、退却した抗議者たちは、今度はパンアメリカン航空の事務所を襲撃した。暴動は真夜中過ぎまで続き、国軍が出動し、最終的には死者2人、負傷者約50人が出る惨事となった[28]。この事件を受け、アメリカは台湾に対する撤退圧力を強め、同年3月から5月にかけて約5,000人の国民党軍兵士が台湾に帰還した。しかし、それでもなお、ミャンマーには約2,000人の国民党軍が残存し、カレン族やシャン族の反乱軍と結託していた[29]。
アメリカの経済・技術支援
米緬相互防衛援助協定を締結された直後の1950年9月13日、両国は1,000万ドルの非軍事開発援助に関する二国間協定を締結した[30]。これにより、アメリカの技術支援がミャンマー全土に広がり、ヤンゴン港の復旧、病院・医大の建設、洪水対策、シャン州におけるマラリア対策[注釈 12]などの事業が実施された。また、知識と研究者の交流が促進され[注釈 13]、1952年から1962年までにフォード財団とアジア財団は、それぞれ900万米ドル、120万米ドルを現地調査に費やし、約300人の研究者をミャンマーに派遣した。高名なミャンマー学者デヴィッド・I・スタインバーグは1958年から1962年までヤンゴンのアジア財団の副代表を務め、エドマンド・リーチやヒュー・ティンカーなどのちに高名を馳せた研究者たちもこのプログラムを利用して現地調査を行い、ミャンマーに関する文献を著した。フルブライト・プログラム[注釈 14]を利用した留学生・研究者の交換も行われ、外交官養成帰還としてジョンズ・ホプキンス大学高等国際関係研究大学院がヤンゴンにキャンパスを開設し、マサチューセッツ工科大学はヤンゴン大学と共同カリキュラムを作成した[14]。
国民党問題により、AFPFL政府は1953年にアメリカからの公式援助を一旦打ち切ったが[注釈 15]、その後もアメリカの民間企業との契約は継続。同年8月、アメリカのエンジニア・コンサルティング会社・ナッペン・ティペッツ・アベット(Knappen Tippets Abbett)、鉱山エンジニアリング会社、経済コンサルティング会社と新たな契約を交わし、国際開発庁(USAID)の前身・技術協力局 (TCA)の資金援助を得て、1.地方政府への権限委譲、2.健康、3.教育、4.経済、5.耕作地の国有化、6.交通、7.福祉、8.民主的な地方議会、9.辺境・未開発地域の開発、10.再建の10項目からなる2巻800ページに及ぶ『包括的報告書:ビルマの経済と工学の発展』というレポートを作成。これをもとに8年半で国民総生産(GDP)を90%上昇させることを目標とする「ピードーター(新生活の創造)計画」を実施した。これは戦後の脱植民地化の時期に開発途上国が採用した最初の経済開発計画の1つであり、のちに他の国々のモデルとなった[31][32]。
しかし、この計画にもとづき、ビタミン剤を供給するために製薬工場を設立したり、ビルマ翻訳協会が翻訳書籍を配布したりしたものの[33]、役人の腐敗と無能に幻滅したウー・ヌは徐々に国家社会主義的方針を転換。1959年9月にビルマ連邦投資法を制定して外資の導入を奨励し始めたが、国有化リスクのために外資の投資は伸びなかった[34]。結局、ピドーター計画は、1957/58年の予算危機で大きく軌道から外れ始め、1958年9月にネ・ウィンの選挙管理内閣が成立した際に事実上終了した[注釈 16]。計画に携わったアメリカ人・ルイス・ワリンスキーは、計画失敗の原因として、次の4つを挙げている[31]。
- 武装勢力の反乱が長期化したこと。
- 1950年に朝鮮戦争が終了すると、当時のミャンマー最大の輸出品だった米の世界的需要が大幅に減少して米の価格が下落し、計画の資金に利用できる外貨が予想より大幅に減少したこと。
- 被援助国のミャンマーではなく、援助国の都合で物事が進められたこと[注釈 17][33]。
- 国軍を関与させなかったので、彼らが権力を握ると興味を示さなかったこと。
そして「(ピードーター計画によってもたらされた)平均的なビルマ人が、新たに獲得した独立から自動的に福祉と豊かさがもたらされると期待するこの素朴な傾向は、その後しばらくの間持続し、経済発展に対する大きな障害となった」と総括している[31]。
その後、1958年7月には、ヤンゴン・マンダレー間の高速道路建設およびヤンゴン大学拡充資金として、アメリカは4年間で3,700万米ドルの無償援助をした[35]。
ネ・ウィンに対する差別的待遇
一方、米緬関係が緊密になるにつれ、アメリカ人のミャンマー人に対する差別意識がたびたび問題となった。ワシントンのレストランでミャンマー人の判事や外交官がサービスを拒否されたり、FBIの職員にミャンマーの政府職員が乱暴な扱いを受けるケースが相次ぎ、ミャンマー政府がアメリカに苦情を申し立てるようなこともあった。また、ミャンマーにおけるアメリカ人技術者・研究者たちの横柄な態度も問題となり、アメリカ使節団の代理団長フランク・N・トレーガー(Frank.N.Trager)などは、仏教徒のミャンマー人に仏教について説教したり、ミャンマー人の最高裁長官にミャンマーの司法制度の弱点や欠点を指摘したり、新聞編集者に事業運営について指図して、多くのミャンマー人の不興を買った。さらに、アメリカ人技術者・研究者が、ミャンマー人の数倍の高給を取り、高級住宅街に住み、多くのミャンマー人召使を抱えていることも反感を買った。おかげでミャンマー側はアメリカの支援プログラムをサボタージュするようになり、政府がアメリカの支援を再考するきっかけとなったのだという[36]。ルイス・ワリンスキーは以下のように述べている[37]。
引退間近のアメリカ人顧問の中には、何よりも金銭に関心を持つ者もいた。中には、国内で満足に働けない不適応者もいた。また、冒険家、無邪気な「善人」、非現実的な学者、心気症患者、利己主義者、他人を喜ばせようと躍起になる「お人好し」、あるいは、自分たちとビルマ人の置かれた環境を軽蔑する皮肉屋の知識人などもいた。専門的能力、誠実さ、職人技、創意工夫、適応力、想像力、忍耐力、健康、活力、現実的な楽観主義、価値観と戦術に対する感覚、ある程度の教育的本能、そして、わずかな宣教師としての熱意――これらはすべて外国人専門家に非常に望まれるものだが――が、同時に備わっていることは稀だった。そして、非常にばらばらで...外国人の生活水準は派手なもので、それが彼らをより広いコミュニティ内の文化的飛び地とみなす傾向があった。 — ルイス・ワリンスキー

また、ウー・ヌに代わって台頭しつつあった国軍総司令官のネ・ウィン個人の反米感情も米緬関係に影を落とした。ネ・ウィンにはジュリアン・リヒト(Julian Licht)という非公式のアメリカ人顧問がいたが、彼があることないこと吹き込んだせいで、ネ・ウィンは、「腐敗した外国企業がミャンマー国民を騙そうとしており、外国企業を支持しているのはわずか5%程度の富裕層だけ」という強い偏見を持つようになったのだという[38]。また、1960年6月、ネ・ウィンが妻のドー・キンメイタンを伴って訪米し、ワシントンD.C.を訪れた際、会談予定だったアメリカ政府高官3人が不在で、空港の税関職員から荷物検査を受けたことにネ・ウィンは憤慨した。さらに、持病の副鼻腔炎と前立腺炎の治療のためにネ・ウィンが、ワシントンD.C郊外にあるウォルター・リード米軍医療センターに入院した際、病室の前の廊下でドー・キンメイタンと彼女のミャンマー人の友人たちが看護婦が来るのを待っていたところ、気管支炎で隣室に入院していたアイゼンハワー米大統領の妻マミー・アイゼンハワーが、「あの忌々しい黒人どもをここから追い出して!」とドー・キンメイタンたちを怒鳴りつけた。これを聞きつけたネ・ウィンは激昂し、治療を切り上げて退院。この経験は、これまで比較的好意的だったアメリカに対するネ・ウィンの見方を変え、以降、彼はアメリカ産のトウモロコシでさえ食べようとせず、2年後の軍事クーデターで権力を握った後の対米政策にも影響を与えたと言われている[39]。
社会主義時代
「友好的だが、親密ではない」関係
1962年ビルマクーデターの5日後、アメリカはビルマ連邦革命評議会を公式に承認した。しかし、ビルマ式社会主義を標榜する革命評議会は、一党独裁、経済の国有化、非同盟・中立外交を是とし、ネ・ウィンの個人的趣向を反映して外国人排斥の性格が濃かった。政府高官および国軍高官と各国の大使館との接触は制限され、在緬外国人は移動の自由を制限され、宣教師は1966年3月までに全員国外退去となった。アメリカに関しては、クーデター直後にフォード財団、アジア財団は追放され、フルブライト・プログラムは停止、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際関係研究大学院も閉鎖、ヤンゴン・マンダレー間の高速道路建設計画も中止され、アメリカが出資した学校や病院も国有化された。また、ビルマ・アメリカ研究所所長ウー・フラトーが逮捕され、1963年まで駐緬アメリカ大使だったジョン・S・エヴァートンは、退任後、「反ネ・ウィン」の罪で告発された。クーデター後も比較的良好だった中緬関係とは対照的で、やはり国民党問題と1960年訪米時の不愉快な出来事が影を落としていた[40]。

とはいえ、ネ・ウィンの外交政策は非同盟・中立であり、アメリカにとってもミャンマーが東南アジアにおける反共の防波堤という関係は変わりなく、アメリカは「友好的だが、親密ではない」関係(駐緬大使アーサー・ハメル)を維持し、限定的な経済・軍事援助プログラムを引き続き実施した。また、非政治的な文化交流も盛んに行われ、プロゴルファーのジーン・サラゼン(1965年4月)、宇宙飛行士のジョン・ハーシェル・グレン(1966年2月)、デビスカップアメリカ合衆国代表(1966年2月、1969年1月)、プロゴルファーのポール・ハーニー(1968年3月)[注釈 18]、デューク・エリントン(1970年1月)、カウント・ベイシー(1971年)、チャーリー・バード(不明)などのジャズ・ミュージシャン[41]、ボストン・セルティックス(不明)などの著名人が訪緬した。特に1970年3月のアポロ12号の宇宙飛行士3人の訪緬は異例の成功を収め、大群衆がオープンカーに乗せられた3人を歓迎し、彼らは月の石と月へ持っていったミャンマー国旗を政府に贈呈した[42][43]。
1969年9月、ネ・ウィンはクーデター後初めて訪米。訪米にあたって、アメリカ当局はアメリカで反乱を企てていた30人の同志の1人ボー・セチャ(Bo Setkya)を、安全確保のためニューヨークの病院に収容した。ネ・ウィンはワシントンで21発の礼砲と楽隊のパレードで出迎えられ、リンドン・ジョンソン大統領と会談して相互不可侵を確認し、共同声明を出した。その夜、ホワイトハウスで催された夕食会で2人はプレゼントを交換、ネ・ウィンにはゴルフクラブ一式、ジョンソン大統領にはチーク材のテーブルが贈られた。その後、ネ・ウィンはバーニング・ツリー・クラブでゴルフをプレーし、ウィリアムズバーグを訪れ、大統領の飛行機でニューヨークへ飛んで国連総会に出席した後、8日間の休暇のためにハワイへ出発した。このネ・ウィンの訪米は大成功と喧伝され、ネ・ウィンの反米感情が若干和らいだとされる[44]。
1976年3月、オーチョーミン陸軍大尉以下若い陸軍将校のグループが、ネ・ウィン、サンユBSPP書記長、ティンウー国家情報局長の暗殺を計画したが[注釈 19]、事前に情報が漏れ、4月2日、オーチョーミンは駐緬アメリカ大使デヴィッド L・オズボーン[注釈 20]の公邸に赴いて政治亡命を求めた。しかし、ミャンマー政府と良好な関係を保ちたいと考えていたオズボーンは、大使公邸に留まってもいいが、政府からの要請があれば引き渡す、または、ヤンゴン内の希望する場所まで車で連れて行ってそこに置き去りにするかのどちらかの選択肢しか与えず、結局、後者を選んだオーチョーミンはスレー・パゴダの近くで降ろされた後、逮捕され、裁判で死刑となり、1979年に処刑された。1976年末から1977年5月までのレポートの中で、オズボーンは「アメリカは目立たないようにすべきだ。我々の待ちの姿勢は、ビルマを本来であれば避けられるはずの危機に追い込むことはないだろう」と述べている[45][46]。
1979年には、12年前に中断されていた国軍将校をアメリカに派遣する国際軍事教育訓練プログラムが再開され、1980年から1988年までに255人の国軍将校がアメリカで軍事訓練を受けた。これは、海外で訓練を受けた415人の国軍将校の61.4%に当たる[15]。1981年には両国間で3000万米ドルという、久しぶりの援助協定が締結された[47]。
ウー・ヌの議会制民主主義党
1969年8月29日、元首相のウー・ヌは、ロンドンで記者会見を開いて、ネ・ウィンを武力で打倒するために議会制民族主義党(PDP)を結成すると発表した。そして、9月25日にニューヨークにやって来て、29日、ゲリラ部隊を結成して武力行使に訴える旨を表明、にわかにアメリカメディアの注目を浴びた。同日、ヌはNBCの『トゥデイ』に出演して自らへの支援とネ・ウィン政権への軍事支援停止を訴え、議員や外交関係者との会合、海外作家協会、ジョンズ・ホプキンス大学高等国際問題研究所などで講演を行った。このヌの行動は米緬関係を緊張させ、アメリカ政府は政府関係者にヌとの接触を禁止した[48]。
また、元CIAのウィリアム・ヤングと、元軍人のジェームズ・ウェズリー・ハメル(James Wesley Hamerle)とハリー・ファーマー(Harry Farmer)という3人のアメリカ人がPDPに参加していたことも問題となった。アメリカ政府はその事実を把握しており、彼らの元に大使館員を派遣したが、それ以上干渉しようとはしなかった。また、PDPの軍資金は、「ピードーター(新生活の創造)計画」に関わったアメリカ人、ルイス・ワリンスキーの紹介で、PDPがヤンゴンを占領したら独占的石油採掘権を与えるという条件の下、カナダのアスマラ(Asmara)石油会社から400万ドルを受け取ったとされている。ただ、アスマラ石油の背後にはモービル石油がいたとも伝えられる[49]。
以上のような経緯から、ミャンマーではCIAがPDPに関与しているとの噂・疑惑もされていたが、アメリカ政府はその噂と疑惑を否定した。
結局、PDPは、1972年4月にヌが離脱したことにより、事実上崩壊した[50]。
麻薬戦争

ベトナム戦争のためにベトナムに駐留したアメリカ兵たちは現地でヘロインを覚え、帰国後もその習慣を止めることがなく、大きな社会問題となっていた[注釈 21]。そして、その主なヘロインの供給源は黄金の三角地帯で、1971年6月17日、リチャード・ニクソン米大統領は「麻薬戦争」を宣言して麻薬と全面対決することを誓い、1973年5月28日、麻薬取締局(DEA)を設置した[51]。
そして、1973年の「麻薬王」ロー・シンハン逮捕をきっかけに開始されたミャンマーの「麻薬撲滅キャンペーン」をアメリカは支援、1974年6月29日に両国は麻薬問題の協定に署名し、1983年までに「麻薬王掃討」のためにUH-1ベル205ヘリコプター6機と4,800万米ドルの資金を提供した。しかし、そのヘリコプターは麻薬に関与していないKNUの掃討作戦にも使用され、アメリカ議会で問題視された。1983年からは国連薬物乱用統制基金(UNFDAC)[注釈 22]によるアヘンの代替作物の栽培も行われ、500万米ドルの費用が費やされたが、その5か年計画に国連職員は管理面でしか関与できず、実際にケシ栽培されている場所では実施されなかったので、計画は失敗に終わった。結局、1983年に350トンだったミャンマーのアヘン生産量は5か年計画が終了した1988年には1,280 トンまで増加しており、キャンペーンは失敗に終わった[52]。
8888民主化運動

1988年、ミャンマー全土で民主化を求める大規模なデモが発生した(8888民主化運動)。この際、駐緬大使のバートン・レヴィンはデモ隊に同情して、彼らに食料や医薬品、そして、隠れ家を提供し、アメリカ大使館前はデモの中心地となった。レヴィンは犠牲者の追悼式に参加し、アウンサンスーチーとも何回か会談した[注釈 23][53]。
アメリカ議会もミャンマー国内の民主化デモに反応した。8月11日には、上院で民主党のダニエル・P・モイニハン議員が提出した国軍の行動を非難する決議案が、全会一致で可決された。続いて9月3日、急遽ミャンマーを訪れた民主党下院議員のスティーブン・J・ソラーツは、マウンマウン大統領と会談し、その後バンコクで記者会見を開いた。ソラーツは「ミャンマー国民の民主主義を求める熱望を、道徳的・政治的に支持する」と表明し、要求が満たされなければミャンマーは内戦に突入する恐れがあると警告した。また、「ビルマ軍の兵士の大半は、反政府デモに共感している」とも述べた[54][55]。
その後、9月7日には、ソラーツが提出した決議案が下院でも全会一致で可決され、上院に続き両院で国軍非難の姿勢が示された。さらに9月12日には、空母コーラル・シーを含む5隻のアメリカ海軍艦隊が、ヤンゴン南方約190マイルのミャンマー領海内に侵入したが、これは大使館職員の退避を目的とした行動であった[56]。
そして9月18日に軍事クーデターが発生すると、アメリカ政府は9月22日に対ミャンマー政策を大きく転換し、すべての武器供与と経済支援を停止。あわせて技術顧問団を召還し、軍事訓練プログラムも終了させた[56]。
SLORC/SPDC時代
人権外交
1989年5月26日、SLORCは国名の英語表記を「ビルマ(Burma)」から「ミャンマー(Myanmar)」へ変更したが、アメリカは変わらず「ビルマ」を使い続けた。1989年から1993年までのジョージ・H・W・ブッシュ政権は経済制裁に慎重だったが、国家法秩序回復評議会(SLORC)[注釈 24]がスーチーを自宅軟禁下に置き、スーチー率いる国民民主連盟(NLD)が大勝した1990年総選挙の結果を反故にする一方、スーチーが1991年10月14日にノーベル平和賞を受賞し、「女性の仏陀」と呼ばれるほどの国際的名声を博すようになると情勢が変わった。即ち、共和党・民主党双方の議員が「人権」と「民主主義」の価値観を掲げて、軍政を弱体化させるために対緬経済制裁を強く求めるようになったのである。当時、スーチーは経済制裁を強く主張しており、ミャンマーの民主派亡命組織もロビー活動をさかんに行って経済制裁を強く要請していた。デヴィッド・I・スタインバーグやロバート・H・テイラーなど著名なミャンマー学者は経済制裁に反対していたが、終始、少数意見に留まっていた[57]。

SLORC/SPDC時代とほぼ重なる1989年の第101回議会から2010年1月の第111回議会までの間、ビルマ/ミャンマーおよびスーチーに関する文書は議会に約130件提出され(最多は第108回議会の28件)、上院議員44人と下院議員64人によってスーチーの名前は1,598回言及された。一番多かったのは共和党上院議員のミッチ・マコーネル(340回)で[注釈 25]、次いで民主党上院議員のダイアン・ファインスタイン(143回)、共和党上院議員のジョン・マケイン(109回)[注釈 26][58]、民主党下院議員のトム・ラントス(88回)と続いた。1993年から2001年までのビル・クリントン政権下ではマデレーン・オルブライト国務長官が、2001年から2009年までのジョージ・W・ブッシュ政権下では、ファーストレディのローラ・ブッシュ[注釈 27][59]が強力なサポーターとなった。いずれも、スーチーの強力なシンパで、アメリカ議会はスーチー一個人とミャンマーを一体視し、その対緬政策はスーチー1人の動向に左右されていた[60]。
これに対して、SLORC/SPDCや軍政に近いクローニー企業は、ミャンマー事情に精通しているアメリカ人コンサルタント・ロビイスト企業と契約し、軍政のイメージアップのためのロビー活動・広報活動を展開した。例えば、1993年にSLORCが雇ったレスター・L・ウルフは、元下院議員で、麻薬戦争の際にミャンマーの麻薬問題に取り組んだ人物だったが、彼は「1930年代にソ連が西側知識人ために企画したような」元議員や現役議員で構成され、費用はSLORC/SPDCが全額負担する「調査団」を何度も組織して訪緬させた。彼らは帰国後、軍政に肯定的なレポートを作成し、軍政を弁護するような発言を繰り返した。ただ、このようなロビー活動・広報活動はSLORC/SPDCを通してずっと行われていたが、軍政の悪イメージが変わらなかったことからして、その効果は限定的だったものと思われる[61][62]。
経済制裁

ブッシュ・シニア政権は、1989年にミャンマーを一般特恵関税制度から、1990年に麻薬取締り協力国から除外したが、追加の経済制裁には慎重姿勢を保っていた。しかし1990年8月、SLORCがマンダレーの僧侶蜂起を弾圧すると、議員からの圧力が強まり、1991年7月18日、1990年末に失効していた米緬二国間繊維協定を更新しない決定を下した[注釈 28]。ただ、ブッシュ・シニア大統領はそれ以上の経済制裁には踏み出さず、SLORCと麻薬対策の協議を再開し、ミャンマー民主派亡命政権ビルマ連邦国民連合政府(NCGUB)も支援せず[注釈 29]、1991年末から1992年にかけての国軍の清潔で美しい国作戦により、約25万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出した際も具体的行動を取らなかった[57]。

続くクリントン政権も、空席になっていた駐緬大使の新任を見送ったものの[注釈 30]、前政権同様、経済制裁には慎重だった。それでもマコーネル上院議員らの尽力により、1995年にアメリカの対外援助法案に「ビルマ・イヤーマーク」を盛り込むことに成功。これにより、国務省と国際開発庁(USAID)が策定する援助計画には「ミャンマー国内外のミャンマー人学生および団体を支援するため」という制限が科せられることとなった。そして1996年9月には、すべての対緬非人道的支援の停止、SLORC幹部のアメリカ入国禁止、国際金融機関のアメリカ代表団にミャンマー支援への反対義務付け、ミャンマー情勢が悪化した場合に対緬新規投資を禁止する大統領権限などを盛りこんだ対緬制裁法を制定した。この制裁は象徴的なものだったが、翌1997年5月20日、クリントン大統領はその権限を発動して対緬新規投資を禁止した。この制裁は既存の契約には適用されないとされたが、既にミャンマーから撤退していたリーバイス(1992年)、リズクレイボーン(1994年)、エディー・バウアー(1995年)、モトローラ(1996年)に加えて、ペプシコーラ、アップル、テキサコ(1997年)、コンパック(1998年。その後同社はヒューレット・パッカードに吸収合併)、リーボック、ベストウェスタン、IBMもミャンマーから撤退した[63][64]。また1998年11月には、外交改革再編法(英語: Foreign Affairs and Reform and Restructuring Act of 1998)を制定し、NLDおよびNCGUBの幹部との事前協議なしに、アメリカはミャンマー向け国連開発計画(UNDP)への新規資金を承認も支援もしないこととされた[65]。クリントン政権下ではこれ以上の制裁は科されなかったが、2000年12月6日、クリントン大統領は本人欠席のままスーチーに大統領自由勲章を授与した[66]。

続くブッシュ・ジュニア政権も当初はミャンマーに無関心で、政権が批判した悪の枢軸にもミャンマーは含まれていなかった。しかし2003年5月30日、遊説中のスーチーが乗った車がUSDAのメンバーと思われる数千人の暴徒に襲撃され、多数の死傷者を出したディベイン虐殺事件が起きると、方針を転換。同年7月、マコーネル上院議員、民主党上院議員のエドワード・ケネディ、共和党上院議員のサム・ブラウンバックらが共同提出した、NLD政権の公式承認、すべてのミャンマー製品の輸入停止、アメリカの銀行サービスの利用禁止、国軍高官・政府高官とその家族のアメリカへの渡航制限、在米資産凍結などを盛りこんだビルマ自由・民主化法が制定された[67]。
2007年、サフラン革命の際に国軍が僧侶のデモを弾圧した際は、ローラ・ブッシュが非難声明を出し、国連事務総長の潘基文に電話をかけてSPDCの行動を非難するよう要請した。2008年4月、サイクロン・ナルギスによりエーヤワディーデルタ地帯を中心に大きな被害が出た際は、アメリカはUSAIDを通じた300万ドルの支援を申し出たが、SPDCはアメリカの侵攻を恐れてこれを拒否。最終的には航空機による95機分の物資の輸送を受け入れたが、最後まで米海軍艦艇による物資の輸送は許可しなかった。同年5月、国民投票によりミャンマー連邦共和国憲法が成立したが、上下両院・地方議会に25%の軍人枠があり、外国籍の子供を2人持つスーチーが大統領になれないなど、さまざまな問題を孕む内容だった。こうした事態に憤慨した議会はあらためてミャンマーに対する制裁を求め、同年7月24日、翡翠、ルビーその他のミャンマー産宝石の輸入禁止を拡大し、特定のミャンマー国民に対する金融・渡航制限、アンダマン海のヤダナ・ガス田採掘に関与していたシェブロンにミャンマーからの撤退を促す条項などを盛りこんだトム・ラントスビルマ翡翠禁輸法が制定された。また、ブッシュ・ジュニア大統領は、任期終了直前に、国軍に近い政商のテーザが関係している複数の企業に制裁を科し、同じく政商のゾーゾーやSPDC関係者の在米資産を凍結した[67]。
テインセイン政権・NLD時代
オバマ政権による方針転換・経済制裁解除

しかし、2009年1月にバラク・オバマが大統領に就任すると風向きが変わった。オバマはアジアにおける中国の台頭を脅威と見なしてアジアへの関与を強化しようとしており、ミャンマーに関しては、体制の交代は断念して、体制の修正と、国軍と反体制派の和解に向けて方針転換した。また、国務長官のヒラリー・クリントンはこれまでの対緬経済制裁が効果を上げなかったことを率直に認めた。同年8月、スーチーの自宅に侵入したジョン・イェタウを迎えに行った民主党上院議員のジム・ウェッブは、SPDC議長タンシュエ、スーチー[注釈 31]双方と会談し、帰国後、制裁反対の意思を表明した。既にこの時期、水面下でアメリカ政府当局者とSPDC指導部との対話が開始されていたとされる[68]。
そして、2010年11月13日におよそ7年半ぶりにスーチーが解放され、2011年3月30日にテインセイン政権が発足し、同年8月19日、アウンサン将軍の肖像画が掲げられた部屋でスーチーとテインセイン大統領との会談が実現した後政治改革が加速し始めると、米緬関係は劇的に進展。2011年11月、ヒラリー・クリントンはアメリカの国務長官として56年ぶりに訪緬し[注釈 32]、テインセイン大統領とスーチーと会談した。この際、ヒラリーは制裁解除の条件として、少数民族武装勢力との和平や政治犯の釈放などを要求したが、テインセイン政権がそれらの要求を粛々と実行に移すのを見届けると、翌2012年2月、世界銀行、IMFなどの国際機関の対緬支援を許可した。さらに同年4月、連邦議会補欠選挙でNLDが大勝すると、ミャンマー問題に精通しているデレク・ミッチェルを1990年以来となる新しい駐緬アメリカ大使に任命した。また、ミャンマー高官に対するアメリカビザ発給禁止解除、USAIDヤンゴン事務所開設、アメリカのNGOによる民主化、保健、教育分野でのミャンマーでの活動許可、金融・貿易制裁の部分緩和、アメリカ企業の対緬新規投資解除などの制裁緩和措置を行った[注釈 33]。ただし、いっそうの改革を促すべく、ミャンマー製品のアメリカへの輸入禁止措置はもう3年延長された[69][70]。
9月16日から10月4日にかけてはスーチーが40年ぶりに訪米し、オバマ大統領[注釈 34]とクリントン国務長官と会談、アメリカ議会からもっとも権威のある勲章アメリカ議会名誉黄金勲章を受与された。また、滞在中に開かれたある公聴会で、スーチーは「私たちの新しい民主主義の勢いを維持するために、アメリカの制裁に頼るべきではない」と発言。遅れて訪米したテインセイン大統領は、9月26日にクリントン国務長官と会談し、その席で、ミャンマー製品の輸入禁止措置の緩和手続きを開始することを告げられた[69][71]。

11月19日には、オバマ大統領が現職のアメリカ大統領としては初めて訪緬し、わずか7時間の滞在時間の間にテインセイン大統領、スーチーの2人との会談、シュエダゴン・パゴダ参拝、ヤンゴン大学での講演など精力的にスケジュールをこなした。その3日前、アメリカはルビーと翡翠を除くミャンマー製品の輸入禁止措置を正式に解除し、2003年以来アメリカが科してきた対緬経済制裁の大部分が解除され両国の経済関係がほぼ正常化した[71]。
2013年2月にはミャンマー国内の主要4銀行のアメリカ企業との取引の許可、同年5月には再びミャンマー高官に対するアメリカビザ発給禁止解除という制裁解除措置が取られ、6月には両国間でUSAIDによる1億7000万ドルの援助に関する経済協力協定が調印され、フルブライト・プログラムや、ヤンゴン大学とジョンズ・ホプキンス大学高等国際関係研究大学院との共同カリキュラムが半世紀ぶりに再開された[70]。
2015年11月の総選挙でNLDが大勝すると、アメリカはさらに経済制裁を緩和し、アメリカ企業が制裁対象企業が運営する港湾や空港を利用して貿易できるようになった[72]。2016年10月17日には、オバマ大統領は1997年に発効した対緬経済制裁を全面解除する大統領令に署名。これにより、ミャンマー産の翡翠やルビーのアメリカへの輸出も解禁され、一般特恵関税制度の適用が再開されたことにより、ミャンマーは約5000品目について無関税でアメリカに輸出できるようになった[73][74]。
ロヒンギャ危機
順調に行くかに見えた米緬関係が暗転したのは、2017年だった。2017年8月25日、ラカイン州で、ロヒンギャの武装組織・アラカン・ロヒンギャ救世軍(ARSA)が、約5,000人の住民を引き連れて約30か所の警察署を襲撃した事件を機に、約70万人のロヒンギャ難民がバングラデシュに流出するロヒンギャ危機が生じた。国際社会ではジェノサイドとの批判が高まり、同時に人権侵害を否定するスーチーに対する批判も高まった。2019年11月11日、ミャンマーに対して起こされたジェノサイド規定違反のハーグ国際司法裁判所(ICJ)の場で、スーチーがあらためてジェノサイドを否定したことにより、彼女の国際的名声は完全に失墜した[75][76]。
これに対してドナルド・トランプ政権下のアメリカは、ジェノサイドという言葉の使用は控えたが、2017年と2018年に国軍司令官たちを対象に[77][78]、2019年には国軍総司令官のミンアウンフライン、国軍副司令官ソーウィンを含む国軍幹部4人を対象に経済制裁を科した。もっともこれらは個人に対する標的制裁であり、ミャンマー国民に与える影響が大きいとされる国家全体への包括的制裁は科せられなかった。ただ、ロヒンギャ危機を機にスーチーおよびNLDの政権は中国に接近していったので、米緬関係は次第に疎遠なものになっていった[79]。
SAC/SSPC時代

経済制裁復活
2021年2月1日、国軍が軍事クーデターを起こし、スーチーらNLD関係者を多数拘束、国家行政評議会(SAC)が設立され、ミンアウンフラインが議長兼首相となった。これを受けて、就任したばかりのジョー・バイデン大統領は、クーデター当日、「同国の民主主義への移行と法の支配に対する直接的な暴行」とSACを非難、同月10日に対緬経済制裁を発動した。年内に経済制裁は10回発動され、計58個人、20団体がその対象となった。ただし、今回もその内容は、在米資産の凍結、アメリカ人・企業との取引禁止、アメリカへ入国禁止といった標的制裁に留まった。他にもアメリカは、ミャンマーとの貿易投資枠組み協定を停止したが、これも「医療、民間社会団体、およびビルマの人々に直接利益をもたらすその他の分野」への支援を妨げないよう配慮がなされた[80][81]。
その後、何人かのアメリカ政府高官が民主派の国民統一政府(NUG)と接触し、ワシントンにNUGの事務所が開設されたが、NUGをミャンマー政府として公式に承認するまでには至らず。2022年12月にはミャンマーの民主化を推進するための「2022年ビルマ法」を盛りこんだ国防権限法案が制定されたが、2023年の支援規模はむしろ過去2年を下回る羊頭狗肉であった[82][83][84]。2023年にはミャンマーの2つの国営銀行、ミャンマー石油ガス公社(MOGE)に経済制裁が科されたが、後者の内容は在米資産凍結を含まず、アメリカの国民・居住者・団体がMOGEに対して特定の金融サービスを提供することなどを禁止するという限定的なものだった[84]。2024年には、国軍に部品を供給しているとみなしたミャンマーとロシアの航空関連会社各2社を貿易規制の対象とした[85]。
民主派への逆風

しかし、2025年、ドナルド・トランプが二度大統領に就任すると、これまでミャンマーの民主派支持一辺倒だったアメリカの対緬政策の風向きが変わった。2025年2月、トランプ政権は、USAIDとそこから資金提供を受けていた全米民主主義基金(NED)を廃止。USAIDのミャンマーへの支出は、2011年の2,400万米ドルから2024年には2億3,760万ドルにまで増加しており、それを資金源としていたミャンマーの民主派メディアの多くが経営危機に陥り[86]、SACを激しく非難していたボイス・オブ・アメリカ(VOA)やラジオ・フリー・アジア(RFA)はミャンマー語放送停止に追いこまれた[87]。また、トランプ政権は、4,500万米ドル相当のミャンマー人留学生向け「多様性と包摂性奨学金プログラム」を停止し、ミャンマー人の入国も禁止した。これらの措置はNUGをはじめとするミャンマー民主派に大打撃を与えたとされる[88][89]。
また同年7月7日、トランプ大統領がミンアウンフライン宛に新たな関税率の設定(40%)を通知する書簡を送り、これを奇貨としてミンアウンフラインは、トランプ宛にアメリカの経済制裁解除を求め、高官級の関税交渉チームをワシントンに派遣する提案をした。アメリカはミャンマーのレアアースに関心を持っているとも伝えられる。いずれにせよ、ミンアウンフラインはトランプからの書簡を自らの権力の正当化に利用した形だった[90][91]。また7月24日、アメリカは国軍関連企業に対する制裁を一部解除したが[92]、これはSACと契約しているアメリカの大手法律事務所フェラーリ&アソシエイツのロビー活動の成果と伝えられる[93]。同年、SACはDCIグループとマッキーオングループという2つのロビイスト企業と新たに契約したと伝えられている[94][95]。