アレクサンドル・ボグダーノフ
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アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ボグダーノフ アレクサンドル・ボグダーノフ | |
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| 生誕 | ロシア帝国、ソコルカ(現ポーランド) |
| 死没 | ソビエト連邦 モスクワ |
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| 職業 | 哲学者・医師・経済学者・SF作家・革命家 |
| 活動期間 | 1897年 – 1928年 |
アレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・ボグダーノフ(ロシア語:Александр Александрович Богдановアリクサーンドル・アリクサーンドラヴィチュ・バグダーナフ、1873年8月22日(ユリウス暦:8月10日)ソコルカ - 1928年4月7日 モスクワ)は、ロシアの内科医・哲学者・経済学者・SF作家・革命家。本名はアレクサンドル・アレクサンドロヴィチ・マリノフスキー(Малиновский)といい、民族的にはベラルーシ人である。普遍的なシステム理論から輸血による回春までと、幅広い科学的関心をもっていた。現代ロシアの同姓同名のテノール歌手は別人である。
第一次大戦まで
地方の教育者の家庭に生まれる。ハリコフ大学で医学の学位を取得中に、革命活動に身を投じてはたびたび逮捕された。1899年に大学を卒業するも医学の道を棄てて、政治哲学や経済学を究め、ボグダーノフの偽名を用いて、1903年にロシア社会民主労働党に入党する。
その後の6年間は、ボリシェヴィキの中で大物にのし上がり、レーニンに次いでナンバー2の地位を得た。1904年から1906年にかけて全3巻の哲学的な論文『経験一元論』を上梓。この中でボグダーノフは、マルクス主義をエルンスト・マッハやヴィルヘルム・オストヴァルト、アヴェナリウスらの哲学に溶け込ませようと試みている。この著書は数多くのマルクス主義の理論家を魅了し、その一人にニコライ・ブハーリンがいる。
1905年革命の崩壊後、ボグダーノフはボリシェヴィキのフペリョート派を率いて、社会民主労働党の代議士の解任を要請し、なおかつボリシェヴィキの指導権をめぐってレーニンと対立する。両者の不和が調停不能となった1908年中頃までに、ボリシェヴィキの指導陣の多くは、ボグダーノフを支持していたか、あるいは態度を決めかねていた。そこでレーニンは、ボグダーノフの哲学者としての名声を殺ぐことに没頭する。1909年のレーニンの著作『唯物論と経験批判論』は、ボグダーノフの地位を貶め、哲学上の理想主義をなじるものだった。
1909年6月に、ボリシェヴィキの雑誌『労働者』の編集主幹によってパリで催された小会合において論破されると、ボグダーノフはボリシェヴィキを脱退し、義兄弟のアナトリー・ルナチャルスキーや、作家マクシム・ゴーリキーらの建神論者に加わってカプリ島に行き、ロシア人職工のための学校を経営する。1910年にボグダーノフとルナチャルスキー、ミハイル・ポクロフスキーならびに彼らの支持者は、学校をボローニャに移して1911年までその経営を続けたが、その間にレーニンとその仲間がパリで同種の学校を始めるようになった。ボグダーノフは1911年に建神論者と手を切ると、革命活動も放棄してしまう。1913年に特赦を追うようにロシアに戻った。
第一次大戦後
第一次世界大戦中のボグダーノフは医療に携わり、1917年のロシア革命においては政治的な役割を何も果たさず、政党への再加入の呼びかけにも応じず、ちょうど1820年代のアレクセイ・アラクチェーエフのように、新体制を非難した。
1913年から1922年まで、長大な哲学論文『組織形態学―普遍的な組織学―』の著述にのめりこみ、後にサイバネティクスによって考究された様々な基礎概念を提起した。1918年にボグダーノフはモスクワ大学に経済学の教授の地位を得るとともに、新設された社会主義者社会科学アカデミーの総裁も兼務した。
1918年から1920年までボグダーノフは、プロレタリア文化運動「プロレトクリト」の提唱者・理論家の一人であった。ボグダーノフは著作や講演において、「未来の純粋なプロレタリア文化」に肩入れするあまりに、「旧弊なブルジョワ文化」の完全な破壊を要求している。ボグダーノフによると、目的意識を社会が共有するだけでは足りず、身体感覚さえも未来の社会は共有する。そして人間の組織労働の形象としての機械が専門性や分業を消滅させ、プロレタリアの団結を促す。工場のリズムでプロレタリアの集団的身体が形成され、究極的に「百万人全員が同じ瞬間にハンマーを取る」というのがプロレトクリトの理論である。はじめプロレトクリトは、当時の他の急進的な文化運動と同じく、ボリシェヴィキ政権から経済支援を受けられたが、1919年からは敵視され、1920年12月1日付けの「プラウダ」紙上において、ソヴェト体制の常軌を逸した「プチブル」団体であり、「社会的に異質な要素」があると宣告された。同年末にプロレトクリトの会長は解任され、ボグダーノフは中央委員会に席を失った。1921年から1922年までの間、ボグダーノフは何の機関ともすっかり縁遠くなってしまう。
1923年の夏ボグダーノフは、発見されたばかりの反体制集団「労働者の真理」を唆したとの嫌疑をかけられ、秘密警察に逮捕され、投獄されたがまもなく釈放された。
1924年にボグダーノフは血液も遺伝子も共有財産と考え、輸血実験にとりかかる。不老不死の実現を望んでいたか、少なくとも部分的な若返りを目論んでいたとも言われる。この実験の自主的な協力者にレーニンの姉妹マリヤ・ウリアノヴァがいた。ボグダーノフは11回の輸血の末に、視力の回復や禿の遅延など、良好な徴候を覚えて満足を表明した。革命家仲間のレオニード・クラスニンは妻に宛てて、「ボグダーノフは例の治療の後で、7歳、いや10歳若返ったように見える」と書き送っている。またボグダノフは、1925年から1926年まで血液学・輸血研究室を開設した。
1928年にボグダーノフが命を落としたのも、輸血実験のためであった。マラリア患者ならびに結核患者の学生から採血したために、輸血を通じてこれらの病に感染したのである。しかしながらローレン・グレアムらの研究者は、ボグダーノフ自殺説をとっており、一方では当時なかなか理解されていなかった血液型不適合のために、命を落としたとの見方も出されている。
作家として
1908年に、火星を舞台としたユートピア小説『赤い星』を出版。この小説でボグダーノフは、未来の科学や社会の発展について幾つかの予言を行なっている。この作品はまた、後のユートピア的なSF小説の展開において常道となったようなフェミニズム的な主題にも触れている。たとえば、両性の実質的な同一化や、「家庭内奴隷」から逃れ、男性と同等の自由を任意で追究する女性像といった主題のことである。
『赤い星』のユートピア像と現代社会との目立った相違点は、労働者が自分の勤務時間を完全にコントロールできるということだが、もっと微妙な違いは、会話などの社会行動に見出される。また、火星社会における輸血についても立ち入った描写がなされている。
『赤い星』は、キム・スタンリー・ロビンソンのネビュラ賞受賞作『レッド・マーズ』の発想源の一つであった。登場人物のアルカディは姓をボグダノフといい、設定上のボグダーノフの子孫ということになっている(ちなみにアルカディという名は、明言されていないものの、おそらくストルガツキー兄弟の弟アルカディの名を貰い受けているのだろう)。
『組織形態学』
『組織形態学』は、ボグダーノフの独創的な問題提起がなされた著作である。社会科学・生物学・物理学の全てを、関連性のある体系と見做し、全ての体系に横たわる組織的な原理を探究しようとすることで、これらの分野を統一しようとしている。1920年代初頭に完成されたボグダーノフの『組織形態学―普遍的組織学―』は、後にノルベルト・ウィーナーの『サイバネティクス』やルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィの「一般システム理論」によって有名になった概念の先駆けを数多く含んでいる。
学術的業績
テクトロジー(組織形態学)
ボグダーノフの主著『テクトロジー (普遍的な組織学)』(Тектология: Всеобщая организационная наука、第1巻1913年、全3巻完成1922年)は、全ての科学領域を横断する組織の普遍的原理を探求した先駆的著作である[1]。「テクトロジー」という語は、ギリシア語の「テクトン(tekton)」(建設者)に由来し、建設の科学を意味する。ボグダーノフはこの名称をエルンスト・ヘッケルから借用したが、内容は全く異なるものであった[要出典]。
テクトロジーの主張は「あらゆる事物は組織的である。すべての複合体はその組織的性格を通じてのみ理解しうる」という命題であり[要出典]、自然界は普遍的に組織的な性格を持ち、その組織の法則は全ての対象に共通すると論じた。ボグダーノフが提唱した主要概念は以下の通りである。
- コンプレックス(複合体)
- システムを構成する要素の集合体。安定した組織的な複合体はその部分の総和を超えるもの(全体論的創発)であり、つねに環境に適応し対応しなければならない[要出典]。
- インクレッション(ingression)
- 二つの複合体を結合し連続性を生み出す媒介要素。社会経済的な空間・時間の連結として後の研究者に再評価された[3]。
システム理論・サイバネティクスとの関係
テクトロジーはルートヴィヒ・フォン・ベルタランフィの一般システム理論(1937年提唱)に先立つこと約15年、同理論の基本概念を網羅していたと評価されている[5]。テクトロジーのドイツ語訳は1926年から1928年に刊行されており、ウィーナーおよびベルタランフィがこの著作に接した可能性を指摘する研究者もいる[6]。研究者シモナ・プスティリニクは「ボグダーノフが一般システム理論とサイバネティクスのみならず、後にプリゴジン、マトゥラーナらの名で知られる複雑系科学のアイデアにまで先んじていたことは、驚くべきことである」と評した[7]。
アラン・ゲアは「ボグダーノフはシステム理論の創始者と見なしうる正当な根拠を持つ人物である」と述べている[8]。テクトロジーは数学的モデルを用いずに提示されており、この点が後世の数理的システム理論家との相違として指摘されるが、逆にそれが複雑系理論の過程論的(プロセス志向)アプローチとの親和性を生んでいるとも評価される。
経験一元論(エンピリオモニズム)
1904年から1906年にかけて刊行された三巻本『エンピリオモニズム』において、ボグダーノフはマルクスの唯物論とエルンスト・マッハ、アヴェナリウスの経験批判論を独自に統合しようとした。客観的真理の基準は「社会的妥当性」にあると論じ、孤立した個人の視点ではなく人間集団の集合的経験こそが知識の正当性を担保すると主張した[9]。この立場はレーニンによって「哲学的観念論」と断じられて政治的に葬られたが、後にニコライ・ブハーリンやドフ・ベル・ボロホフなどに影響を与えた。
主な著作
哲学・組織科学
- Основные элементы исторического взгляда на природу (自然への歴史的観点の基本要素), サンクトペテルブルク, 1899年
- Познание с исторической точки зрения (歴史的観点からの認識論), サンクトペテルブルク, 1901年
- Эмпириомонизм: Статьи по философии (エンピリオモニズム:哲学論文集) 全3巻, モスクワ, 1904–1906年
- Философия живого опыта: Популярные очерки (生きた経験の哲学:一般概説), サンクトペテルブルク, 1912年
- Тектология: Всеобщая организационная наука (テクトロジー:普遍的な組織学) 全3巻, ベルリン・ペトログラード-モスクワ, 1913–1922年
英訳: Essays in Tektology: The General Science of Organization, trans. George Gorelik, Seaside, CA: Intersystems Publications, 1980年
英訳(第1巻のみ全訳): Tektology: Book 1, trans. A. Kartashov et al., Hull: Centre for Systems Studies Press, 1996年
経済・社会科学
- Краткий курс экономической науки (経済学短期講座), モスクワ, 1897年
英訳: A Short Course of Economic Science, trans. J. Fineberg, Hyperion Press, 1925年 - Вопросы социализма (社会主義の諸問題), モスクワ, 1918年
SF・文学
- Красная звезда (赤い星), サンクトペテルブルク, 1908年
英訳収録: Red Star: The First Bolshevik Utopia, ed. Loren Graham & Richard Stites, Bloomington: Indiana University Press, 1984年 - Инженер Менни (技師メンニ), モスクワ, 1912年
思想・考え方
ボグダーノフの思想の根幹には、人間の知識はその社会的・集合的文脈から切り離して評価することはできないという認識論的立場がある。孤立した個人の経験は現実の断片的な映像しかもたらさず、真理の基準は集団としての「社会的妥当性」に求められるべきだと彼は論じた。この立場から、ボグダーノフはアヴェナリウスの経験批判論が個人的視点に終始していると批判し、社会的・集合的経験を中心に据えた独自の経験一元論(エンピリオモニズム)を構築した[10]。
テクトロジーにおいてボグダーノフが目指したのは「組織された経験の体系化」であり、物理・生命・社会の各領域にわたる普遍的な組織原理の発見であった。彼は「人類には組織的活動以外の活動はなく、組織的問題以外の問題は存在しない」とさえ断言した[11]。科学の統一を「科学のソーシャリズム(社会化)」として捉え、知識を一部エリートの専有物ではなく集団の共有財産にすることが社会変革の条件であるという信念は、プロレトクリト運動への理論的基盤ともなった[12]。
また輸血への執着も純粋な医学的関心にとどまらず、血液の相互交換を「利他的・集合的・マルクス主義的」な生命の更新として捉え、老化という個体的限界を社会的連帯によって克服しうるとのコスミズム的思想と結びついていた[13]。
註釈
- ^ See Stephen F. Cohen. Bukharin and the Bolshevik Revolution: A Political Biography, 1888-1938, Oxford University Press, 1980 (first published by Alfred A. Knopf in 1973), ISBN 0-19-502697-7 p.15
- ^ See Alan Woods. Bolshevism: The Road to Revolution, Wellred Publications, 1999, ISBN 1-900007-05-3 Part Three: The Period of Reaction available online
- ^ See Bernice Glatzer Rosenthal. New Myth, New World: From Nietzsche to Stalinism, Pennsylvania State University, 2002, ISBN 0-271-02533-6 p.118.
- ^ See Bernice Glatzer Rosenthal. op. cit., p.162.
- ^ See Boris Souvarine. Stalin: A Critical Survey of Bolshevism, New York, Alliance Group Corporation, Longmans, Green, and Co, 1939, ISBN 1-4191-1307-0 pp.346-347.
- ^ See Bernice Glatzer Rosenthal, op. cit., pp.161-162.