一代で帝国を築き上げたアレクサンドロス3世が紀元前323年に急死した時、王妃ロクサネは妊娠中であったが、誕生する子供の性別が判明しないため、遺されたマケドニア軍の中では王位継承について意見が対立した。今後の体制を決めるために開催されたバビロン会議の際、歩兵と彼らに与した将軍メレアグロスはアリダイオス(アレクサンドロスの異母兄、毒殺未遂により知的障害者となり事実上王位継承権を失ったと見られていた)の名を挙げたが、千人隊長ペルディッカス(ヘタイロイの指揮官)はロクサネの腹中の子が男子である可能性に望みを託し出産を待つべきだと主張した。
エウメネスの仲裁もあってか両者は妥協し、アリダイオスを名目上のマケドニア王ピリッポス3世とする代わりにペルディッカスは摂政となり、ロクサネが産む子が男子であれば出生の時点でピリッポス3世の共同統治者となることが取り決められた。そして紀元前323年8月にアレクサンドロス4世が誕生すると、直ちに名目上のマケドニア王として即位し、ピリッポス3世の共同統治者とされた。
摂政ペルディッカスは厳格な摂政政治を行ったが、他の遺将たち(ディアドコイ)との対立を深め、反対派を倒そうとエジプト遠征を行うも失敗した。それを機に起こった兵士たちの反乱ののち、紀元前321年或いは紀元前320年の5月か6月に、セレウコスはじめとする部下の将軍たちの裏切りによりペルディッカスは暗殺された。残ったディアドコイによりトリパラディソスの軍会が開かれ、アンティパトロスが新たな摂政とされた。
アンティパトロスは、帝国全体を支配するという建前をあきらめ、総督の支配下にそれまで属州であったエジプトとアジアを放置して、支配権を総督たちに委ねることにした。そして自らは2人の王とロクサネとともにマケドニア本国に戻った(ディアドコイ戦争参照)。
紀元前319年、アンティパトロスはその死に際し息子であるカッサンドロスを措いて、ピリッポス2世とアレクサンドロスに仕えた将軍ポリュペルコンを後継者とした。
この決定に不満を抱いたカッサンドロスは、プトレマイオス、アンティゴノス、ピリッポス3世の野心的な妃エウリュディケと同盟し、摂政の名の下にポリュペルコンと対峙した。対してポリュペルコンはエウメネス、アレクサンドロスの母オリュンピアスと同盟した。
ポリュペルコンは初めギリシア諸都市の確実な支配に成功したが、紀元前318年、彼の艦隊がアンティゴノスにより打ち破られると、カッサンドロスはマケドニアの完全なる支配権を手中にし、ポリュペルコンはエペイロスへの逃亡を余儀なくされた。ロクサネとアレクサンドロス4世はその後に続いた。数ヶ月後、エペイロス王家出身のオリュンピアスの説得により、エペイロス王アイアキデスはポリュペルコンと共にマケドニアに侵攻した。
オリュンピアスが戦場に赴くと、エウリュディケの軍はアレクサンドロスの母后と戦うことを拒んでオリュンピアスに寝返り、この間にポリュペルコンとアイアキデスはマケドニアを奪還した。ピリッポス3世とエウリュディケは捕えられて紀元前317年12月25日に処刑され、オリュンピアスがアレクサンドロス4世の摂政として実権を握った。
翌紀元前316年、ペロポネソス半島より戻ってきたカッサンドロスは再度マケドニアを征服した。オリュンピアスはすぐに処刑され、同時にロクサネとアレクサンドロス4世は、グラウキアスの監視下にアンフィポリスの要塞に軟禁された。紀元前311年、カッサンドロス、プトレマイオス及びリュシマコスの3人とアンティゴノスとの間に講和が成立し、第3次ディアドコイ戦争が終結したときの盟約の中で、アレクサンドロス4世の権利は承認され、成年に達したときにカッサンドロスの後継者として統治者になることが定められた。
盟約によりアルゲアス朝の擁護者たちは、アレクサンドロス4世は今や全権を行使すべきであり摂政はもはや必要ないと主張し始めた。カッサンドロスはこれに対し、彼の統治を確実なものにすべく紀元前309年、グラウキアスにロクサネとアレクサンドロス4世の暗殺を命じ、2人は毒殺された。近い時期に異母兄のヘラクレス(英語版)とその母バルシネも殺害され、アルゲアス朝は断絶した。
1977年8月にギリシャの考古学者マノリス・アンドロニコスにより発見されたアイガイ(ヴェルギナ)の墳丘墓のうちの一つが、アレクサンドロス4世の墓だと思われている。